王宮のある一室では、初老を向かえた二人の男が膝をつき合わせて会談を行っていた。
 一人はマザリーニ、もう一人はリッシュモンである。
 リッシュモンは王国の司法を司る機関―――高等法院の長であり、ゲルマニアとの同盟のためにマザリーニが画策したアンリエッタの婚姻政策を破綻させたマリアンヌについた貴族の筆頭でもある。

「では、どうあってもその姿勢を変えるつもりはないと?」
「ええ、私は太后陛下のご意向に背くつもりはございませぬ。陛下の仰ったとおり、我らがトリステインがゲルマニアごときに膝をつくなど、あってはならないことですな」

 眉を寄せて問うマザリーニに、リッシュモンは平然と答えた。
 表面上は互いに事務的な態度をとっているが、二人の間には心なしか険悪な雰囲気が漂っており、部屋に控えている侍女や衛兵たちは、気まずそうに片隅に身を寄せている。

 こうして会談を行うのは、今回が初めてではない。
 いつかのアルビオン対策会議にて、リッシュモンがマリアンヌの側についた頃より、幾度となく行われている。
 だが、マザリーニにとって、その結果は芳しいものではない。
 何度行っても、結局は平行線のまま終わるのだ。

 マリアンヌかリッシュモン―――どちらか一人でも崩せれば、他の貴族どもなどどうにでもできるのだが、それが至難の業であることは、マザリーニとて分かっている。
 しかし、さすがにそろそろ嫌気がさしてきた。
 自分の案件に反論するのはいい、だがそれならば代案を出してみろ。
 そう怒鳴りつけたいところではあるが、如何せん本当に怒鳴るわけにもいかない。
 マザリーニが内心愚痴をはきつつ、グツグツとした感情を表に出さないよう努めていると、それに気づいているのかいないのか、リッシュモンは薄く笑いながら口を開く。

「そもそも、本当にレコン・キスタと争う必要性があるのですかな?」
「―――何ですと?」

 この男は何を言い出すのだ、といったような顔で見つめてくるマザリーニに真っ直ぐ視線を向けたまま、リッシュモンは話を続ける。

「ですから、レコン・キスタと争わなければ良いのでは? 彼らの目指すところは『聖地の奪還』。これは始祖ブリミルの教えに、何ら反するものではありませぬ。ならば同じ信徒として、トリステインがそれに協力するのは、おかしなことではない、とは言えないでしょうか?」
「本気で、言っているのですかな?」
「少なくとも、ふざけてはおりません」

 マザリーニはマジマジとリッシュモンの顔を見た。
 今見る限りでは、本当にそう考えているように感じられる。

「リッシュモン殿―――」
「失礼いたします」

 その真意を確かめようとマザリーニは口を開いたが、その前に扉が開かれ、外に控えていた衛士が近寄ってくる。
 衛士は足早にマザリーニに歩み寄ると、その耳元で声を潜めつつ言う。

「ラ・ヴァリエール公爵が参られたようです」

 マザリーニはそれを聞くと立ち上がった。
 突然の行動に訝しげにこちらを見ているリッシュモンに、マザリーニは声をかける。

「リッシュモン殿、急用が入ってしまったようです。申し訳ありませんが、本日はここいらでお暇させていただきます」
「そうですか。分かりました、お気になさらずに」
「ありがとうございます」

 マザリーニは会釈をすると、扉に向かって足を進めた。
 衛士が開けた扉を出る寸前、マザリーニは立ち止まると、振り向くこともせず背中越しにリッシュモンに声をかける。

「リッシュモン殿。どうかトリステインのことをお考えになり、何がこの国のためになるかを選択していただきたい」

 リッシュモンはそれに、同じように背を向けたまま答える。

「私は先々代―――あの偉大なるフィリップさまより仕えて30年になります。それ以来、なによりもトリステインのことを考えていると、自負しています」





 リッシュモンの部屋を出たマザリーニは、一度自分の執務室に向かおうと歩いている。
 その道中、背後にいる衛士に向かって指示を出した。

「ラ・ヴァリエール公爵は、応接室に御案内しろ」
「かしこまりました」
「それと、モット伯を私の執務室に呼んでくれ」
「はっ」

 衛士が離れていくのを見届けたマザリーニは、一つため息をおとしてから足を速めた。
 やることは沢山ある、しかし時間は限られている。
 はてさてどうしたものか、と考え、マザリーニはトボトボと一人王宮の廊下を歩いていくのだった。

















 宮廷を出立してから次の日の夕暮れになった頃、何度となく馬を乗り換え急いで走らせたアレクは、ラ・ロシェールの街に着いた。
 狭い峡谷に挟まれた街道沿いに、一枚岩をうがって造られた建物が並んでいる。
 かつて『土』系統のメイジたちの巧みな技術によって、同じ岩から一軒一軒削り出されて造られたこのラ・ロシェールは、もはや街全体が一種の芸術品だといっても過言ではない。

 アレクは馬を預けると、人混みに紛れるように歩き出す。
 この街の元々の人口はおよそ300人ほどだが、アルビオンとトリステインの玄関口ということもあり、常にその十倍程度の人間がいる。
 狭い通りにそれほどの人が闊歩していることに加え、彼はいつも通りの執事然とした格好ではなく、さながら旅商人のような服装であるため、目立つことはない。

 まずは待機しているという人物たちと合流しなければならない。
 アレク自身は誰が待っているのかも知らないが、出発の際にマザリーニは、すでにラ・ロシェールには通達をしているため、あちらから接触があるだろうと言っていた。
 しかしそれとなく首を回らして周りを見てみるが、それらしき人物は見あたらない。
 おそらくアルビオンが内乱中だからであろう、周りには多くの傭兵や商人、またそれらをターゲットにした酒場や娼館などの客寄せらしき女性たちが数多くいる。

 とりあえず、とアレクは宿屋が固まっている方面へ歩き出した。
 賑やかな大通りをゆっくり歩いていると、呼び子の一人であろう女性が、彼に近づいてくる。
 二十前後であろう金髪で胸元を大きく開けた服装の女性は、しなだれかかるようにアレクの右腕を抱えると、艶っぽく彼の顔を見上げ、口を開く。

「どう? お兄さん、ちょっとウチに寄っていかない?」
「いや、俺は……」

 左手を女性の肩に掛け断ろうとしたアレクだが、ふと何かに気づいたように言葉を止める。
 そして少しの間女性の顔を見つめると、顔に笑みをうかべた。

「そうだな、お姉さんが相手してくれるのか?」
「ええ、たっぷりサービスするわよ」
「じゃあ、頼もうかな。どっちだ?」
「決まりね。こっちよ、来て」

 そう言うと、女性はアレクを引っ張るように歩き出す。
 アレクはそれに逆らわず、女性の腰に手を添える。
 二人は人混みを抜け、脇道へと入っていった。

 脇道を抜け、さらに奥深くの路地裏の一角に、『金の酒樽亭』と書かれた看板がつけられた居酒屋があった。
 何故か扉の直ぐ横に大量の壊れた椅子が積み上げられているその居酒屋のはね扉を押し開け、二人は中に入っていく。
 中で酒を飲んでいるのは、傭兵や一見してならず者だと分かるような男ばかり。
 男たちは二人が入ってきたのに気づくと、赤らめた顔で酒臭い息をはきながら、ヤジを飛ばし出す。

「おうおう、お二人さん! これからお楽しみかい?」
「羨ましいねぇ、後でお裾分けくんない?」
「おい姉ちゃん! そんな優男じゃなくて、俺の相手をしてくんねぇか!?」
「はっ! 身の程を知るんだな。お前さんじゃオーク鬼だって相手してくんねぇだろうよ!」
「あんだとテメェ! ケンカ売ってんのか!?」
「な、なんだよ! ヤルってのか!? お、俺はロンディウムのジョン知ってるんだぞ!? 俺に手を出すってことは、ジョンにケンカを売るってことだからな!?」
「なにぃ! あのジョンだと!? ちっ、しゃあねぇな、さすがにジョンが相手じゃ分がワリィ……」
「お前ジョン知ってるのか!? あの盗賊団を一夜で壊滅させたというジョンを!?」
「トロ−ル鬼と相撲をして勝ったというジョンを!?」
「流行病に罹った老婆をたちどころに癒したというジョンをか!」
「初めて喋った言葉が『天上天下唯我独尊』だというジョンを!」
「実は奥手だというジョンをか!」
「笑ったとき、えくぼができるのが可愛らしいジョンを!」

 途端に騒がしくなった場の横を、「何者だジョン」と思いながらも通り過ぎ、二人は二階に上がっていく。
 二階の奥まった一室にはいると、アレクは質素なベッドに腰をかける。
 女は扉を閉め妖艶に笑うと、アレクに近寄り、その耳元で息を吹きかけるように話し出す。

「さぁ、お楽しみの時間ね?」
「お楽しみはいいんだが……いつまでこれやるんだ? リュシー」

 アレクは目の前の女―――リュシーに向かって、呆れたように言葉をかけた。
 それにリュシーはつまらなそうに身を引く。

「ノリが悪いですね、アレクサンドル様。ちょっとはおたついたりしたらどうです?」
「そんなこと言われてもな……っていうか、元聖職者なくせに、それはどうなんだ?」
「元は元ですから」

 リュシーはそう言って肩をすくめると、アレクから離れ壁際にあるテーブルに近寄り、そこに置かれたワインの栓を開けると、グラスを二つ用意する。
 二つのグラスにワインを注ぐと、それを持ってアレクに歩み寄り片方を差し出した。
 アレクはそれを受け取り何となくリュシーと乾杯をすると、一口含む。

「出発は?」
「明日の朝一番に。すでに船は一隻確保しています。本当なら『スヴェル』の月夜を待った方が良いのでしょうが、それでは遅くなりますから」

 普段は海洋上を周回しているアルビオン大陸は、『スヴェル』の月夜の翌日の朝が最もラ・ロシェールに近づくのだ。
 普通の商船などはそのときを見計らって飛び立つのだが、明日にでもアルビオン現政府が倒れようとしている今、それを待つなど悠長な真似はできない。
 アルビオンの最寄りの港であるスカボローから、王党派がこもっているニューカッスル城までの道のりを考えると、すぐにでも出発したいところではあるのだが、リュシーが言うには、まだ風石の積み込みが終わってないらしい。

「そうか」

 船の燃料とも言える風石が積み終わってないなら、いくらごねても船は出せない。
 アレクは納得すると、グラスを呷る。

「それで他の人員は?」
「ええ、もちろん私以外にも数人います。そうですね、アレクサンドル様がこちらに着いたことは把握しているはずですので、そろそろ尋ねてくる頃かと……」

 そういった会話をしていると、扉がノックされた。
 リュシーは目を細め扉に近づき、何事か確認するように、外に向かって一言二言声をかける。
 それで納得したのか、頷くとゆっくり扉を開いた。

「やぁ、これはこれはアレクサンドル様。どうやら、また貧乏くじを引かされたようですね。まぁご無事にお着きになられたようで、何よりでございます」

 入ってきたのはトマであった。
 いつものように口元に微笑をうかべている彼は、どこかからかうような口調で自慢の銀髪を揺らしながら、アレクに歩み寄り、頭を垂れる。
 毎度のごとく、自分を敬っているのかそうでないのか、よく分からない青年にアレクは苦笑いする。
 ふと彼から視線を外すと、外からさらに一名入ってくるのが見えた。

 それはアレクには見覚えがない人物であった。
 緑色の長い髪をした女性は、美しい顔を不快気に歪ませながら、いかにも嫌々といった態度で入室してくる。
 するとその視線に気づいたのか、トマは後ろを一度見ると、アレクに向き直り説明をしだす。

「ああ、彼女は協力者です」
「協力者?」
「ええ、アルビオンまで行くのはそれほど難しくはないのですが、向こうに着いてからが大変ですからね。なので向こうの地理に詳しい案内人をつけたほうが良いだろうと、マザリーニ枢機卿が。何しろ内乱中ですからね、下手にウロチョロしてたら直ぐさま死ねます」

 なるほど、とアレクは頷く。

「で、彼女は誰なんだ? 俺は今まで見たことはないが……」
「ああ、それもそうでしょうね」

 トマは一つ頷くと、その女性に手を向ける。

「彼女は『土くれ』のフーケです」
「は?」
「ですから、『土くれ』のフーケこと、マチルダ・オブ・サウスゴータです」
「はぁ……」

 唐突過ぎて意味が分からない。

「『土くれ』というと、あの盗賊の?」
「はい、つい先日捕らえられた、あの『土くれ』ですね」
「どうやって協力させてるんだ?」
「脅迫です」

 さらりと恐ろしいことを言うトマ。
 どうにもまだ背景が掴めないアレクに、リュシーが横から口を差し込んだ。

「つまりですね、本来彼女は処刑されるはずだったのですが、その見事な腕前を惜しいと判断されまして。それにトリステインは万年人材不足ですから、どうせなら引き込んでしまおうと」
「ああ、それはなんとなく分かるが……どういう手段で脅迫してるんだ?」
「“制約(ギアス)”をかけました」
「それはまた……」

 大昔に使用を禁じられた呪文の一つに、“制約(ギアス)”というものがある。
 心を操る水系統の呪文で、それをかけられた者は、任意の条件を満たしたとき、詠唱者が望む行動を取る。
 これの恐ろしいところは、その強制力だけではなく、発動するまでかけられた者でさえかかっているのか分からない、さらに発動中の行動は記憶に残らない、というところだ。
 もっとも今の場合は自分がかかっているという自覚を持たせなければならないので、本来の驚異度からは少々落ちるだろう。
 しかし、エグイことには変わりない。
 アレクは思わず顔を引きつらせてリュシーを見る。

「彼女にはある一定条件を満たすと、自害するように仕込んであります。死にたくないのならば、私たちには逆らえません。つまり―――彼女はもう傀儡同然だということですわ」

 そう言って妖艶に笑うリュシーを、アレクは恐ろしいモノを見る目で見た。
 やはり女性は怖い、と再認識するアレクである。
 それはともかくとして、とりあえず初対面なので自己紹介でもしようと、アレクは立ち上がった。
 何故『サウスゴータ』である彼女が盗賊に身をやつしているのかも気になるが、詳しいことは後でトマなりリュシーなりに聞けばいいだろう。
 そう考え、まだ扉の前で突っ立っているフーケに歩み寄り、できるだけ友好的に見えるように笑顔をうかべると、片手を差し出す。

「アレクサンドルだ。これから世話になる、よろしく」
「チッ!」

 顔を背けられたまま、盛大に舌打ちされた。
 さすがに初対面でこれほどあからさまに舌打ちされたのは初めてだが、心のどこかでは「ですよねー」と、納得せざるを得ないアレクであった。

















「では授業を始める。知ってのとおり、私の二つ名は『疾風』。疾風のギトーだ」

 魔法学院では『風』の講義が行われていた。
 講師であるギトーは、真っ黒なマントを羽織り長い髪をなびかせながら、神経質そうな顔つきでいつも通り授業を進める。
 若く優秀な教師であるにもかかわらず、その不気味な雰囲気と、必要以上に『風』を持ち上げるせいか、ギトーは生徒たちに人気はない。
 なので生徒たちは表面上真面目に聴いてはいるが、内心ではダルダルになっており、一刻も早くこの時間が過ぎるのを望んでいる。

 ルイズはその光景を焦点の合わない目でぼんやりと見ていた。
 彼女の頭を占めているのは先日の出来事。
 結局あんな雰囲気の中真面目な話ができるわけもなく、その場はお開きとなった。
 魔法衛士隊の隊長であるワルドは、やはり長いこと暇をもらえるわけではないらしく、あの後すぐに宮廷に戻ってしまった。

 ―――三日後、返事をもらいに来る。

 真剣な顔でそう言って去っていったワルドを思い出すと、反射的に頬が熱くなってくる。
 なにせ、ルイズは求婚どころかまともな告白を受けたのすら初めてなのだ。
 それも今回は幼い頃憧れていた人物からである。
 ワルドをはっきり「好き」だと断言できるわけではないが、ルイズにしてみれば、やはり嬉しくもある。
 だが―――

 ルイズの脳裏に、不意に使い魔であるサイトの姿がうかぶ。
 異世界から来たなどと嘯く不思議な少年。
 ワルドと比べればそれこそ月とスッポン、ルイズの周りにいる女生徒に、「どちらと結婚したい?」と聞けば、おそらく十人中十人がワルドを選ぶだろう。
 しかし、とルイズは悩む。

 ギーシュと決闘したときの、ボロボロになった、けれどもどこか男らしい顔。
 フーケ捕縛のとき、自分を守るためにゴーレムの前に立ちふさがった、あの背中。
 それらがルイズの頭の中を駆けめぐる。

(―――って、それじゃあ私がサイトのことを気になってるみたいじゃないの!)

 さらに顔を赤くしたルイズは、うかんだ考えを吹っ切るように頭をぶんぶんと振る。
 ギトーの授業を退屈そうに聞いていた周りのクラスメイトは、突然真っ赤になり頭を振り回しだしたルイズに、目を見開き体を引く。
 しかしルイズ自身はそれに気づかず、さらに自分の世界にこもっていった。

 クドクドと『風』のすばらしさを話し続けるギトーと、時折顔を赤くして頭をぶんぶんと振るルイズに挟まれた生徒たちは、微妙な雰囲気の教室で「なんだコレ?」と悩んでいた。
 すると、突然教室の前方にある扉が音をたてて開かれ、ひょっこりと輝かしい頭を持つコルベールが顔を出した。
 ギトーは自分の授業が妨害されたと感じたのか、コルベールに向かって不機嫌そうな顔を向ける。

「ミスタ・コルベール、授業中です」
「あややや、申し訳ありません、ミスタ・ギトー。すぐに済みますので」

 コルベールはギトーに頭を下げると、教室の後方にいるルイズを見つけ、彼女に声をかける。

「ミス・ヴァリエール!」

 しかし自分の世界に入っているルイズの耳には届かない。
 それをまずく思ったのか、近くにいる金髪で巻き毛の女生徒が、ルイズの肩を揺すりながら彼女の名を呼んだ。

「ルイズ、ねぇルイズってば」
「か、勘違いしないでよねっ! ……ってモンモランシー? 何よ?」
「何よってこっちが聞きたいわよ、寝ぼけてるの?」
「ね、寝ぼけてないわよ。ちょっと考え事してただけで……」
「まぁいいわ。それよりも、ミスタ・コルベールがお呼びよ」
「えっ?」

 モンモランシーが指さす先には、確かにコルベールがルイズを見ていた。
 ルイズは慌てて立ち上がると、コルベールに問う。

「な、何でしょうか? ミスタ・コルベール」
「ええ、ミス・ヴァリエール。学院長室まで来てくれますかな?」
「学院長室、ですか?」





 魔法学院本塔の最上階にある学院長室には、珍しく外部からの客が来ていた。
 年の頃は40手前あたりだろうか。
 来客用のソファーに身を沈めたその客は、丁寧に手入れをされた口髭を弄りながら、壁際に設置された本棚を興味深そうに眺めていた。
 学院長であるオスマンは、水パイプをくゆらせながら、目の前に人物に問いかける。

「して、モット伯。何故王宮は彼女を?」

 モット伯と呼ばれた男は、オスマンの声に本棚から視線を外すと、肩をすくめて答える。

「さて、私は枢機卿より役目を与えられたまでですから。その内容については存じませんな」
「ふむ、しかしのぉ……勅使とはいえ好色で知られる君に女生徒をあずけるのは、ちと心配じゃな」

 ジュール・ド・モットというこの男。
 王宮の勅使にして『波濤』の二つ名を持つ優秀なトライアングルメイジだが、それよりも好色な貴族としての方が有名なのだ。
 彼は長く白い顎髭を撫でつけながら言うオスマンに、薄ら笑いを向けながら口を開いた。

「なに、私自身が好色なのは認めますがね、生憎好みにはうるさい方でして。幾度かヴァリエール公爵のご息女であるルイズ嬢を見たことはありますが、如何せん彼女は一人前の女性というにはまだ早いでしょう。女性はやはりコレもんのコレもんでなければ」

 そう言って胸や腰のあたりで、謎のジェスチャーをする。
 オスマンはモット伯の主張を聞くと、呆れたようなため息をついた。

「若い……若いのぉ、ジュール・ド・モットよ」
「何? それは聞き捨てなりま―――っ!?」

 オスマンの言葉に気分を害したモット伯は、立ち上がり眉尻をつり上げて言い返そうとしたが、思わずその口を止めた。
 原因は目の前にいる老人。
 先ほどまでの好々爺とした顔は消えてなくなり、口の前で手を組んで自分を無表情に見つめるオスマンに、モット伯の足は無意識に一歩二歩と下がってしまう。

「コレもんのコレもん? ふん、浅いにもほどがある。女体は神がつくりたもうた芸術じゃ。君の浅はかな見識で、それを語るなど百年早い」

 ―――空気が、軋む。

 モット伯は背中に流れる嫌な汗を止めることができない。
 今や、彼は完全にこの老人に飲み込まれていた。

「女性にはそれぞれ違った魅力がある。成熟した女性にはその女性の、未成熟な女性にはその女性の。君は忘れてしまったのか? 学生であった頃のときめきを」

 モット伯ははっと息をのんだ。
 脳裏にうかぶのは、もう二十年前にもなろうかという昔の情景。

 ミニスカートからのぞくハリのある足に鼓動が早まった。
 ブラウスの胸元から見える艶やかな肌に胸が高鳴った。
 そう―――あの頃は同級生のちょっとした仕草に魅力を感じていたはずだ。

「おお……おお……!」

 いつの間にか、モット伯の頬には涙がつたっていた。
 何故、何故忘れていたのだろうか。
 あの輝かしい日々を―――

「オスマン……オールド・オスマン!」
「どうしたかね? ジュール・ド・モットよ」
「若さを……知りました……」

 さながら神父の前で懺悔を行うかのように絞り出されたモット伯の言葉に、オスマンはまるで父のように笑った。
 その表情に、モット伯は救われた気がした。

(ああ! これが―――!)

 これが―――“偉大なる(オールド)”オスマン。
 齢100とも300ともいわれる、老練のメイジ。
 トリステインが誇る大賢者。

 モット伯は今日この時、初めて『聖人』ともいうべき人物を見た―――





 まさか目的地である学院長室で意味の分からない寸劇が行われているとも知らず、ルイズはコルベールの後につき石造りの廊下を歩いている。
 何故自分が呼ばれたのかを先ほどから考えているのだが、理由は分からない。
 まさかワルドのことを知られたとは思えないし、たとえ知られたとしても呼び出されるようなことではないはずだ。
 そんなことを考えていると、不意に後ろから声がかけられた。

「ルイズ!」

 その声にコルベールともども振り向くと、開け足でこちらに近づいてくるサイトの姿があった。

「おや? どうしたのかね、サイト君?」
「えっと、何かルイズが呼び出されたらしいってシエスタ―――メイドの娘に聞いて」

 その答えにコルベールは困ったように笑うが、すぐに普通の表情に戻った。

「まぁいいでしょう。使い魔は主と一心同体といいますからね、サイト君も来ても構わないでしょう」

 コルベールは前に向き直ると、再度足を進めた。
 ルイズとサイトは彼の後ろに並んで歩く。
 二人は互いの顔をチラチラとのぞいているが、いざ目が合うとすぐに反らしてしまう。
 何となく声がかけづらい。
 結局微妙な雰囲気のまま、学院長室に着いてしまった。

「オスマン学院長、コルベールです。ミス・ヴァリエールをお連れしましたぞ」
「おお、入りなさい」

 コルベールが扉をノックして中に声をかけると、すぐに返答があった。

「では、失礼しますぞ」
「失礼します」
「し、失礼します」

 まずコルベールが、ついでルイズが、最後にサイトがたどたどしく入っていく。
 部屋の中には、いつもの通り椅子の腰掛けて水パイプをふかしているオスマンと、何故か涙を拭っている貴族―――モット伯の姿があった。
 意味が分からない光景に三人の思考が停止する。

「突然呼び出してすまんかったの、ミス・ヴァリエール」
「……い、いいえ!」

 何事もなかったかのように声をかけてきたオスマンに、ルイズは我に返った。

「さて、何故君を呼んだのか、じゃが……ぶっちゃけ私もよく分からん。詳しくはそっちの男に聞いてくれ。王宮の勅使、モット伯爵じゃ」

 モット伯を指し示してそう言うと、オスマンはまたパイプをくゆらせ始める。
 やる気なさ気な態度にルイズは困惑するが、モット伯が声をかけてきたので、そちらに顔を向けた。

「こうして直接対面するのは初めてかね? ルイズ嬢。ジュール・ド・モットだ」
「はい、モット伯。ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールです」

 ルイズはちょこんとスカートを摘むと、礼儀正しく礼をした。
 それを見たモット伯は、どこか感動したような面持ちでオスマンに視線を向ける。
 オスマンはモット伯に向かって「分かっとるよ……」とでもいうような表情で頷いた。

「あ、あのモット伯? 何故王宮の勅使がいらっしゃったのでしょうか?」

 よく分からない二人のアイコンタクトに幾分引いてはいたが、それよりも自分が呼ばれた理由が気になるのか、ルイズは弱々しく尋ねた。
 モット伯わざとらしく咳払いをすると、彼なりに厳格な雰囲気をつくる。

「マザリーニ枢機卿の元に参向するよう言付かっている。すぐに、とのことなので参ろうか」

 そう言うと、モット伯は何故かルイズの手を取り部屋を出ていった。
 どういうことなのか聞き返す前に、彼女は連れて行かれてしまう。
 どうにも忘れられていたような気がするサイトは、慌てて二人の後についていった。





「それで、どういうことなのですかな、オスマン学院長」
「さて? さっきも言ったと思うが、私にもどういうことなのかは分からんのでな」

 オスマンは立ち上がり、窓から外の様子を見下ろす。
 彼の視線の先には、モット伯に手を引かれ、馬車に向かって歩いていくルイズと、その後を慌てて追っていくサイトの姿があった。

「では私たちが来るまで、モット伯とは何を話していたのですか?」
「何、大したことではない……ただ―――」
「ただ?」

 オスマンはそこで一息つき、嬉しそうな声色で続けた。

「―――私の後継者候補が、また一人増えたかもしれんな」

 その言葉の意味が分からないコルベールは、「はぁ」と気が抜けたような相づちを打つしかなかった。
 よもや自分もその候補に数えられているとも知らず。




















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