眼下にはトリステインの穏やかな風景が見える。
鬱蒼と茂った森、ちらほらと見える家屋、広々とした草原。
こんな景色を見たのは久しぶりだ、とルイズは思った。
「ああ、あそこが良さそうだね、降りようか、ルイズ」
ワルドの言葉に、ぼうっとしていたルイズは我に返る。
反射的にワルドを見上げると、彼が微笑ましそうに笑っていたので、何となく気恥ずかしくなり視線を逸らし、彼が指し示した先を見た。
そこには小さな泉があった。
ワルドはルイズを気遣っているのかあまり揺れないように丁寧にグリフォンを操作し、ゆっくりと地面に降り立つ。
「さぁおいで、ルイズ」
先にグリフォンから降りたワルドは、ルイズに手を差し出す。
ルイズはわずかに顔を赤くしたまま、ワルドに抱えられグリフォンの背から降りる。
二人はグリフォンをその場に残し、泉の畔に座り込んだ。
「あら、良い雰囲気ね」
ワルドとルイズが座っている場所から少し離れた草むらで、キュルケとサイト、そして何故かいるギーシュが二人をのぞき見していた。
タバサは一人我関せずとばかりに、離れたところで己の使い魔にもたれかかり、本を読んでいる。
サイトはキュルケの楽しそうな声を聞くと、横目で彼女を睨み付けた。
「あら? どうしたのサイト」
「別に」
「そう? ふふふ」
「何笑ってんだよ?」
「ふふ、いーえ、別に?」
にやにやと笑いながら自分と同じ言葉で返してくるキュルケに、サイトは舌打ちしそうになるのをこらえる。
そして彼女から視線をはずし、口をとがらせていると、じっとルイズたちをみていたギーシュが口を開いた。
「おや、何かルイズに話しかけているぞ?」
サイトは急いで視線を戻した。
「やぁ綺麗なところだね、ルイズ」
「ええ、そうね」
言葉こそ友好的だが、どこかそわそわしているルイズに、ワルドは話しかける。
「何か気になることでもあるのかい?」
「え? い、いえ、べべべべべ、別に?」
「ふぅん、『別に』?」
そう言うと、ワルドは背後の茂みにチラリと横目を向けた。
キュルケは頭を押さえて、舌を出した。
「あちゃ〜、ばれてるわね、アレ」
「彼はグリフォン隊の隊長なのだろう? なら確か『風』のスクウェアのはずだ。それならこの距離でも僕たちを見つけるのは、そう難しいことではないだろうね」
来る途中にサイトから事情を聞いたギーシュは、自分の知識にあるワルドのことを思い出して言う。
「そうなの? さすがねぇ。ま、あっちも私たちを追っ払う気はなさそうだし、続けさせてもらいましょ」
「ねぇワルド……」
取り留めもない話を続けていると、ルイズがワルドに焦れったそうに話しかけてきた。
「何だい?」
「どうしてここに私を連れてきたの? 話って何なの?」
「ああ、そうだね……」
何から話そうか考えているのか、ワルドは顎に手を添えたまましばらく黙り込んでいたが、何か決心したように頷くと、ルイズに真っ直ぐ視線を向けた。
その真剣な目に、ルイズは思わず気圧される。
「ルイズ、僕の領地に来てくれないかい?」
「ワルドの?」
理由が分からない、と首を傾げるルイズに苦笑いするワルド。
「そうだね……ルイズ、レコン・キスタって知ってるかい?」
「えっと……聞いたことはあるわ。確かアルビオンの……」
「うん、今内乱を起こしている反政府組織だね」
急な話題転回に困惑しつつも、きちんと答えを返すルイズに、ワルドは満足そうに頷く。
「多分ね、そう遠くないうちに、トリステインとアルビオンは戦争になる」
「そんな!? だってアルビオンは……」
「残念ながら現政府は倒れるだろうね」
ルイズの――いや、ルイズに限ったことではないが――常識では、そもそも王家に逆らうこと自体が埒外だ。
それなのにレコン・キスタとかいう組織は、逆らうだけでなく、ワルドの言うことが正しいのなら、その王家を滅ぼすのだという。
あまりにも自分の常識とはかけ離れたことを聞かされ、ルイズには別の世界のことのように聞こえた。
「もしかしたら、魔法学院にまで火の手が届くかもしれない。そんなもしものときのために、ルイズには僕の領地に来てほしい。何しろ僕の領地はゲルマニアとの国境沿いだからね、学院よりは安全だ」
ルイズが受けたショックを気にしつつも話を止めないワルドに、彼女は半ば強引に戻らされた。
「でも、それなら私の実家でも構わないんじゃないの?」
ルイズの実家であるラ・ヴァリエール領と、ワルドの領地は隣り合わせだ。
それならばどちらでも構わない―――いや、自分の実家の方が適当ではないのかと言うルイズに、ワルドははにかんだように笑う。
「ど、どうしたの?」
「いや、そうだね、もっとストレートに言った方がいいのかもしれないな」
「どういうこと?」
「うん、ルイズ……僕は君に、僕の家に来てほしいんだ」
「え?」
「つまり―――」
「何話してるのかしら?」
キュルケは眉を寄せ唸った。
先ほどから耳を澄ましているが、二人の声は聞こえない。
「ふふん、僕に任せたまえ。僕のヴェルダンデを地中に潜行させて、感覚の共有をすれば―――」
「ねぇタバサ、二人が何を話しているか分からない? あなたも『風』のメイジじゃない」
自信満々に胸を張ったギーシュだが、普通の無視をされたので、地面に突っ伏しいじけ始めた。
そもそも彼の使いまであるヴェルダンデは学院に置いてきたので、その案は実現不可能なわけだが。
それはともかくとして、キュルケに尋ねられたタバサは、ちらりと視線を向けると、わずかに頷いた。
キュルケは頼もしい友人の答えに、嬉しそうに手をあわせる。
「本当!? ねぇ、じゃあ今何を話してるの?」
キュルケの質問に、タバサは無表情で答える。
「結婚の申し込みをしている」
「何だとぉ!!?」
「―――僕と結婚してほしい」
「なっ!!?」
ルイズは顔を真っ赤に染め―――
「何だとぉ!!?」
―――突如聞こえた声の発生源に、勢いよく顔を向けた。
ルイズの視線の先には、草むらで呆然と立ちつくすサイトと、その足下にうずくまり「あちゃー」と頭を押さえているキュルケ、そして何故か涙目で土を弄っているギーシュがいた。
真っ赤な顔のまま口をパクパクとし、震える人差し指でこちらを指すルイズに、キュルケはぺろりと舌を出し、茶目っ気たっぷりに小首を傾げた。
「ごめーんね」
「ア、ア、ア、ア、アアアアア、アンタらあああああ!!!」
「HOLLY SHIT!!!」
慌てて逃げるキュルケたち、猛然と追いかけるルイズ。
何故か一気にコメディ調になった雰囲気に、ワルドは羽帽子をずらして顔をかくすと、わずかに覗いた口元を苦笑いの形に歪め、呟く。
「OH MY GOD……」
アンリエッタにはしばらくマザリーニの言葉が理解できなかった。
この男は何を言っているのだ。
そういう意味を込めた視線を、目の前で無表情に自分を見つめている男に向ける。
「どういう、つもり……?」
「どういうつもりも何も、言葉通りでございます。アレクサンドルをアルビオンに送りたいので、しばらくお貸し願えないかと」
ひょうひょうと答えるマザリーニ。
アンリエッタは彼の態度に苛立ったように顔をしかめると、険をのせた声色で再度尋ねる。
「ですから、何故この時期にアルビオンに人を―――アレクを向かわせる必要があるのか聞いているのです」
マザリーニはじっとアンリエッタの目を見つめたかと思うと、短く息をはいてから喋り出す。
「この時期だからです。殿下とて今のアルビオンの情勢はご存知でしょう?」
「ええ、内乱が激化してますわね。ですから何故そんな危険な場所に向かわせるのかを―――」
「トリステインのためです」
アンリエッタの言葉を遮り、声に力をのせてマザリーニは話を続ける。
「彼の『レコン・キスタ』などと名乗っている愚か者どもが掲げている標榜は『聖地の奪還』、そしてそのための『ハルケギニアの統一』。アルビオンが倒れればあやつらの牙はすぐさまこのトリステインに向けられるでしょう」
そんなことは分かっている、とアンリエッタが言おうとする前に、マザリーニは続ける。
「トリステインはそれに備えねばなりませぬ。しかし、アルビオン空軍を手中に収めたレコン・キスタに、トリステインは軍事力で確実に劣ります」
空の上に浮かんでいるアルビオンは、その特性上、陸軍より空軍の割合がかなり多い。
その力は空戦においてはハルケギニア一といってよいほどで、もし攻め込まれたら、トリステイン一国で凌ぎきるのはまず不可能だ。
「よって、早急に他国と同盟を組まねばなりませぬ」
そこで選ばれたのが、隣国である帝政ゲルマニアだ。
ハルケギニア最大国家であるガリアは、わざわざ他国と同盟を組む必要性はそれほどない。
宗教国家ロマリアはガリアを隔てたさらにその向こう側に存在しているので、軍隊を派遣するには手間がかかりすぎて不適切。
その他に点在する小国では力不足というより他ない。
その点ゲルマニアは、国力ではアルビオンと十分比肩しうるだろうが、諸国をまとめて一本化したということもあり、統制に欠けいささか不安が残るので、どちらにとっても同盟はメリットがある。
「殿下もお聞きになっていらっしゃるでしょうが……私は初め、殿下と皇帝のご婚姻によって、ゲルマニアとの同盟を成そうと考えていました」
「―――ええ、知っています……」
ゲルマニアにも同盟を組む理由があろうとも、現状危機に立たされているのはトリステインである。
そのためこちらから何か相応のものを差し出さなければならない。
そこでマザリーニが思いついたのが、アンリエッタの輿入れであった。
「しかし残念ながら……それはつい先日、太后陛下によって却下されました」
「母さまが!?」
以前―――魔法学院に訪問する前、マリアンヌが「任せておけ」と言っていたのを思い出し、アンリエッタは顔を青褪めさせた。
マザリーニはアンリエッタの様子に頓着せず話を進める。
「私も繰り返し陛下の説得にあたっていますが、はてさてどうにも……」
困ったものだ、と言わんばかりにゆるゆると首を振る。
「殿下の輿入れが難しいということならば、すぐにでも何か代わりになるようなものを探さなければなりませぬ。初めは有力貴族の子女を、とも考えたのですが、それではいささか弱い」
ゲルマニア皇帝が望んでいるもの、それは『権威』である。
ハルケギニアに存在する大国と呼ばれる国の内、もっとも小国なのは間違いなくトリステインだ。
しかし、単純な国力で勝っているにも関わらず、ゲルマニアは他の四国よりも一段下に見られている。
その理由は一つ―――始祖の系譜に連なる存在ではないからだ。
ただ始祖の『権威』が存在しないというだけの理由で、アルブレヒト三世は皇帝『閣下』と呼称されるのを、甘んじて受けなければならない。
故にアルブレヒト三世は、始祖の権威を求めた。
己の系譜に、始祖の『血』を取り入れようと。
つまりアンリエッタが求められている理由は、彼女『個人』ではなく、トリステイン王女という『立場』ですらなく、ただその身に始祖の『血』が流れているというだけのこと。
だがマリアンヌによって、アンリエッタとアルブレヒト三世の婚姻政策は破算した。
トリステインの貴族の中にはいくつか系譜を辿れば王家にあたるものもあるが、やはり直系たるアンリエッタに比べればその血は薄い。
それではやはり、アンリエッタの代わりたりえないのだ。
「ですが一つ心当たりがございまして」
マザリーニが言う心当たり。
始祖の『血』以外に、王を王たらしめる象徴。
つまりそれは―――
「―――『始祖の秘宝』。すなわち、アルビオン王家に伝わる『始祖のオルゴール』。これの譲渡をもって、ゲルマニアとの同盟を成します」
マザリーニが退出した後、アンリエッタの部屋には彼女とアレクだけが残された。
アンリエッタは顔を伏しているため、前髪に隠れその表情は見えない。
「とりあえず……おやつでも召し上がりますか?」
アレクはいつものように、アンリエッタに話しかけた。
しかし、彼女からの反応はない。
「まだご夕食には早いでしょうから。しかし小腹は空いているのではありませんか?」
アレクは気にした様子もなく続ける。
「何にいたしましょうか? ケーキ? シュークリーム? パイもよろしいですね」
空々しいほどに笑顔で。
「昨日は学院でケーキを出されましたので、シュークリームにいたしましょうか?」
「―――んで……」
小さな声が、アレクの耳に入った。
「何か仰いましたか? アンリエッタ様。やはりケーキがよろしいですか?」
「何で笑っているのッ!!?」
勢いよく上げたアンリエッタの顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。
目元は赤く染まり、涙が溜まっている。
「他国に! 内乱中のよッ!? 戦場なのよッ!? そんなところに行けと言われて何で笑っているのッ!? もしかしたら―――死んでしまうかもっ……死んで―――死……っ……」
アンリエッタは自分の言葉に恐怖を覚えたようで、再度顔を伏せ震えだした。
アレクは困ったように笑うと、アンリエッタに歩み寄る。
ハンカチを取り出して、彼女の顔を拭う。
「まぁ私が適任だと猊下が判断したのならしょうがないでしょう、確かに私はウェールズ殿下と面識がありますから」
アルビオンへの使いとしてアレクが指名されたのは、彼が彼の国の皇太子ウェールズと面識があるからであった。
本来ならばきちんとした大使をたてて送らせるのが良いのだろうが、今回は場合が場合だけに、正式な使者は送れない。
かといって、書状だけ持たせた十把一絡げな者では、信用されるか怪しいものだ。
そのため、向こうの重要人物と面識があり、かつこちらも騙されないよう向こうを知っている人物で、危険な目にあってもそれほど大した損害にならない人物として、アレクが選ばれた。
「猊下がわざわざアンリエッタ様に進言したほどですから、それは国にとって必要なことなことなのでしょうし」
彼はアンリエッタの前で膝をつき、彼女の顔をのぞき込む。
涙は止まっていた。
「というわけで、少し行ってきます。直ぐに戻ってまいりますので」
「ダメ」
「アンリエッタ様……」
キッパリと断られたアレクは眉を寄せる。
「あまりわがままを……」
「ダメったらダメよ。アレクはここにいるの、アルビオンなんかに行くなんて許さないわ」
頑として譲らないアンリエッタに、アレクは軽く息をはく。
そして彼女に覚らせないように、杖を握りしめた。
ついで、口の中でルーンを唱えると、杖の先から白い靄が出てくる。
「これは命令よ、アレク。ここにいなさい」
アンリエッタはまだ靄に気づいた様子はない。
「アンリエッタ様、私は大丈夫ですから」
「何でそんなことが言えるの? 軍人でもないくせに」
「それはそうですが、悪いほうに考えるより良いでしょう?」
「それは楽観視っていうのよ、だいたい―――ッ!? アレク!」
ようやくアレクが“眠りの雲”を唱えていたことに気づいたようで、アンリエッタは強く頭を振ると、彼を睨みつけた。
しかし無防備に受けていたせいで、彼女はだんだんと眠りに落ちていく。
「アレク、やめなさい……ダメ……やめて……」
アンリエッタのそう言われても、アレクは解除をしなかった。
むしろさらに力を込めたため、アンリエッタの意識は急速に消えていく。
「ダメ……ダメよぉ……」
「おやすみなさいませ」
アレクの言葉を最後に、アンリエッタは完全に眠りについた。
前のめりに倒れてくる彼女を支えると、しっかりと抱き上げベッドに寝かせる。
ドレスが皺になるかな、などと考えながら、アレクは杖を腰から外し、近くにあった羊皮紙に何事か書き込むと、一緒にアンリエッタの枕元に置いた。
最後に彼女の顔をのぞき込み、簡単に髪を整えると、静かに部屋を出ていく。
アンリエッタの部屋を出ると、アレクはマザリーニの執務室に足を向ける。
扉を叩き入室許可を得ると、「失礼いたします」と声をかけてから中に入った。
マザリーニは入室したアレクを一瞥すると、手招きしてから口を開く。
「殿下はいかがされた?」
「お休みになられました」
「ふん、そうか」
片眉を上げそう言うと、マザリーニは目の前まで歩み寄ってきたアレクに、厳重に封蝋された書状を渡す。
「直接ジェームズ陛下にお渡ししろ」
「かしこまりました」
アレクは恭しく受け取ると、懐にしまい込む。
「それと向こうに着いてからだがな、秘宝の確保以外にやってもらいたいことがある」
マザリーニはその内容をアレクに伝える。
それを聞いたアレクは、口元を引きつらせ汗を流した。
「何だ、辞めたくなったか?」
「いえ……」
ため息をはくと、アレクは首を振った。
「そうか、ならさっさと出発……ああ、まて」
出口に向かおうとしたアレクを、何か思いだしたらしいマザリーニが止める。
まだ何かあるのか、と不思議そうな顔をしたアレクに、マザリーニはいくつか小瓶を渡す。
「ラ・ロシェールに数人待機させてある、そいつら合流してからアルビオンに向かえ。その小瓶は一人一つ持つように」
「これはなんでしょうか?」
「毒だ、即効性の」
その答えにアレクは先ほどよりも盛大に顔を引きつらせた。
「もしレコン・キスタ捕まって、トリステインが介入したとばれたらことだ。いざとなったら飲んで死ね。ああ……ただし、一名は秘宝を持って帰ってくるように気をつけろ」
「いや、まぁ仰ることは分かりますが……」
もしかしたらこの人は俺のことを殺そうとしているのではないだろうか、とアレクは半ば本気で悩む。
「何だ、こんどこそ辞めたくなったか?」
「いえ、行きます……」
どこか面白そうに問いかけてくるマザリーニに、アレクは憮然とした様子で返した。
「ふむ……意外といえば意外だな」
「何がでしょうか?」
「いや、お前が文句を言わないことが、だ。私はお前のことを見くびっていたのか? それとも理解していないだけの馬鹿なのか? もしかして英雄願望でもあるのか?」
「いえ、もちろん怖いことは怖いのですが……まぁ、私も曲がりなりにも貴族ですから。国に尽くすのは吝かではありません」
「ふん、嘘臭い」
「嘘臭いって……」
一刀両断するマザリーニに、アレクは困ったように笑う。
マザリーニは少しの間ジロジロとアレクを見ていたが、不意に何か思いついたような顔になった。
「となると……そうか」
「なんでしょうか?」
「殿下に結婚してほしくないのか?」
マザリーニは未だアンリエッタの婚姻も視野に入れているが、もしそれが必要でなくなったのならば、わざわざ行おうとは思わない。
つまり、今回アレクが首尾良く秘宝を確保できれば、アンリエッタの婚姻を行う可能性は、少なからず低くなるのだ。
マリアンヌが説得出来ないようであれば、なくなると言ってもいい。
「さて……それはどうでしょう」
アレクは曖昧に笑うと、肩をすくめた。
「あまりこうして時間を潰すのも良くないのではありませんか?『時は金なり』と言いますからね、行ってまいります」
「うん? ああ、そうだな、さっさと行け」
「はい、では、失礼いたします」
頭を下げ出ていくアレクを見送ると、マザリーニは一度背を伸ばす。
「さて、休憩は終わりだ」
まだまだやることは沢山ある。
マザリーニは頭を切り換え、いくつもの書簡を机の上に並べると、ペンを持ち仕事を再開した。
その日、日も落ち暗くなり始めた時刻に、アンリエッタは目を覚ました。
ぼうっとした頭を軽く振ると、フラフラと身を起こす。
咽の乾きを覚えた彼女は、眠気覚ましついでに何か飲み物を持ってきてもらおうと思い、呼び出し用の紐を引く。
すると、すぐさま部屋のドアが開き、一人の女官が入ってきた。
「何か飲み物をちょうだい」
「かしこまりました、少々お待ち下さいませ」
頭を下げ、女官は一度退室した。
なぜアレクが来なかったのだろう、とアンリエッタが首を傾げていると、女官が水差しとグラスを一つ持ち戻ってきた。
アンリエッタはそれを受け取り一口飲むと、その女官に問いかける。
「アレクはどこに行ったのかしら?」
「申し訳ありませんが、私は存じません」
「そう……? ああ、もう下がっていいわよ、少し一人にして」
アンリエッタの指示に従い、女官は頭を下げると静かに部屋を出ていく。
「アレクったらどこ行ったのかしら」
物音一つしない部屋の中、アンリエッタは呟く。
すると、ベッドの横に、何か置いてあるのに気づいた。
「あら? これはアレクの杖? それと、置き手紙かしら」
手紙を手に取り開く。
内容は簡単なものだった。
『少々出かけてまいります。お体にお気をつけてくださいませ。 それと私の居ない間、あまり周りを困らせないようお願いいたします。
アレクサンドル』
「何よ、アレクったら失礼ね」
手紙の内容に、アンリエッタは口をとがらせる。
ついで、そのままここにはいないアレクに文句を言う。
「大体私に黙って出かけるなんて、従者失格よ」
手紙に染みが出来た。
どこからか水滴が落ちている。
一滴、二滴、三滴―――
「あの時だってそうだわ、いくら枢機卿の指示だからって、勝手に行っちゃって」
アンリエッタが思い出すのは、およそ一年半ほど前のこと。
戻ってきたアレクと街に出て、宮殿に帰ってラ・ポルトに叱られた後言ったはずだ。
―――私に何も言わないで離れてはダメよ?
―――離れるのは私の許可を取ってからにしなさい。
―――アレクは私の従者なんだから。
―――アレクは私のそばにいなきゃいけないんだから。
「もう、約束破って……」
手紙の染みが増える。
四滴、五滴、六滴―――
「ほんと……アレクったらだめね……」
さらに増える。
七滴、八滴、九滴―――
「―――帰ってきたら、叱らなくちゃ……」
くしゃりと音をたて、手紙が握りつぶされた。
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