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「婚約者あッ!?」

 ワルドの言葉を聞いたサイトは驚き、素っ頓狂な叫び声を上げた。
 しばらく石のように固まった彼は、信じられぬ面持ちで目を見開いたまま、ルイズに視線を向ける。
 しかしそこにいたのは、サイトの「否定してほしい」という淡い期待を裏切るかのように、またもや真っ赤に頬を染めた一人の少女であった。
 その少女はサイトの視線に気づくと、我に返り慌ててワルドに向かって声を張り上げる。

「そ、それは親が決めたことじゃない!」

 ルイズの言葉に、ワルドはガッカリしたようにわざとらしく肩を落とす。

「おや? ルイズは僕のことを嫌いになってしまったのかい? それとも、まさか恋人ができたとか……」

 そう言って彼は、ルイズの隣にいるサイトに、意味あり気に目を向ける。
 そのワルドの視線に気づいたルイズは、さらに頬を赤く染めると、両手をわたわたと振る。

「ち、違うわよ! こんなのが恋人なわけないじゃない!」

 ルイズの言葉に、ワルドは嬉しそうに頬をゆるめる。

「そうかい? よかった、君に恋人が出来たと知ったら、傷ついて寝込んでしまうところだったよ」

 そうは言ったものの、ワルドの自信あり気な様子から、本気ではなかったのだろうことが窺えた。
 ルイズの横では、こんなの呼ばわりされたサイトが、がっくりと肩を落とし、今にも倒れ込んでしまいそうなほど落ち込んでいる。
 それに気づいたルイズが何かしらフォローを入れようとするが、ワルドが側にいるためか、それとも普段そんなことをしたことがないからか、もにょもにょと口を動かしただけで、何も言葉は出てこない。

 そんなことをしていると、3人のすぐ側を、女生徒が二人、こそこそと何かを囁き合いながら通り過ぎた。
 それを横目にしたルイズは、今更ながら自分たちが目立っていることに気づく。
 サイトとルイズの二人だけならともかく、一見して魔法衛士隊の一員であると分かる格好をしたワルドが混じっているのだ。
 そんな3人組が女性用の寮塔の目の前で立ち話をしていたら、人目につかぬはずもない。
 恥ずかしさからさっと顔を赤くしたルイズは、慌てたようにワルドに話しかける。

「ワ、ワルド! こんなとこで立ち話をしてないで、移動しましょう! とりあえず私の部屋に……あっ、でも部屋じゃ失礼かしら。でも来客室とか借りるのは……」

 うまく考えがまとまらず、ブツブツと一人で考え込む。
 ワルドにはルイズの様子が微笑ましく映ったのか、微笑まし気に頬をゆるめると、やさしい口調で話しかける。

「落ち着いて、ルイズ。君の部屋も見てみたいが、できれば少し出られないかな?」
「えっと、出るって?」

 ルイズは不思議そうに首を傾げる。

「ああ、ちょっと学院の外に。なるべくあまり人の居ない所で話をしたいんだが」
「ひ、人のいないとこ?」
「うん、駄目かい?」

 真剣な面持ちで尋ねるワルド。
 ルイズは口をもごもごと動かすと、ちらりとサイトに目を向けた。

「んだよ?」

 先ほどのことでへそを曲げたのか、サイトは憮然とした面持ちで、不機嫌にそう言った。
 その口調にかちんときたルイズは、眉をつり上げ勢いよくワルドに向き直る。

「ええ、構わないわ。どこに行くの?」
「ありがとう、ルイズ。せっかく久しぶりに会ったんだから、ちょっと遠乗りにでかけようか」
「そう、それじゃあ馬を借りてこないとね」
「ああ、それなら心配いらない」

 それに不思議な顔をしたルイズがどういうことか尋ねる前に、ワルドが口笛を吹く。
 すると彼の口笛に応え、どこから一体のグリフォンが飛んできて、3人の側に舞い降りた。
 ルイズはグリフォンが降りてきたことによって起きた風で乱された髪をおさえると、ワルドに尋ねる。

「このグリフォンはワルドの?」
「そうだよ」

 ルイズの問いに軽く頷くと、ワルドはひらりとグリフォンの背に飛び乗る。
 そしてしっかりと座ると、自分の前を少し開け、ルイズに向かって手を差し伸べた。

「さぁおいで、ルイズ」

 ルイズは少し躊躇うようにモジモジとしていたが、結局ワルドに抱きかかえられグリフォンに跨った。
 そして一度サイトに目を向けたが、彼は顔を顰めたままそっぽを向いている。
 そんなサイトの様子に、ルイズは面白くなさそうに鼻をならす。
 ワルドはルイズとサイトを一度ずつ見ると、笑って手綱を握りしめる。

「では出発しようか」

 それを合図に、グリフォンが翼をはためかせる。
 次第に離れていく学院を、ルイズはワルドに抱かれるような格好のままで見下ろした。
 地上には、ゆっくりと飛び立つグリフォンを、複雑な表情で見ているサイトがいる。

「面白くねぇな……」

 二人が離れていくのを見送ったサイトが、口を噛みしめ呟いた。
 どうにもあのワルドとかいう男は気に入らない。
 いきなり出てきて、ルイズの婚約者などと言って、何か意味あり気なことを彼女に言ったと思ったら、分けのわからないまま連れて行った。

「ったく、ルイズもルイズだ。あんなやつにホイホイ着いていきやがって……」
「何がホイホイなんだね?」
「うおぉッ!?」

 顔のすぐ真横、息がかかりそうな距離から話しかけられたサイトは、慌てて飛び退く。
 元の場所から2メイルほど離れた地点で振り向くと、そこには金髪の少年がいた。
 心なしか元気がないその少年は、片手を上げるとサイトに話しかける。

「やぁサイト、こんなところで何してるんだい?」
「何だ、ギーシュか……。いきなり話しかけるなよ」

 サイトはほっと息を付くと、胸に手を当て、心臓がおさまるのを待つ。
 次第に落ち着いてくると、ギーシュの片頬に赤い手形が付いているのが見えた。
 それが気になったサイトは、その手形を指しながらギーシュに尋ねる。

「お前、それどうしたんだ?」
「モンモランシーが……」
「ああ、分かった。もう言わなくていいや」

 どうせいつもの痴話喧嘩だろう。
 そう判断したサイトは、暗い空気を背負うギーシュが愚痴を始める前に遮った。

「ああ、何て冷たい男なんだ……やっぱり僕を理解してくれるのは君だけだよ、ヴァルダンデ」

 ギーシュはどこからか取り出した薔薇を銜えると、いつの間にか足下にいた、自身の使い魔であるジャイアントモールに縋り付く。
 サイトは巨大なモグラにうっとりとへばりつく薔薇を銜えた少年という、シュールな光景に顔を引きつらせた。
 一通り己の使い魔と戯れて満足したのか、ギーシュはすっきりとした顔で立ち上がると、再度サイトに尋ねる。

「それで何がホイホイなんだね?」

 何故かやけに「ホイホイ」を気にしているギーシュに、サイトはしばし口ごもるが、決心したように複雑な顔で口を開く。

「ああ、ルイズのやつが……」
「あれは恋ね」
「うおぉッ!?」

 先ほどと同じように、至近距離から声をかけられたサイトは、これも先ほどと同じように、驚いて飛び退く。

「あら、そんなに驚くなんて心外ね」

 そこにいたのは二人の少女。
 派手な雰囲気を纏う少女キュルケと、対照的に物静かな雰囲気を崩さない少女タバサである。

「やっほー、サイト」

 キュルケはにこやかに片手を上げ、笑顔でサイトに手を振る。

「ああ、やっほー……じゃなくて! さっきのはどういうことなんだ?」

 つられて手を振るサイトだが、すぐに我に返ると、先ほどのキュルケの言葉を思い出し尋ねた。
 サイトの言葉にキュルケは首を傾げる。

「さっきの?」
「恋がどうこうとか……」
「ああ、それ?」

 キュルケはそう言うと、面白そうに口をつり上げた。

「サイトやルイズがあの男と話しているところを、そこの寮の影からこっそりと覗いていたんだけど……」
「なんでこっそり……?」

 ギーシュのつぶやきを無視して続けるキュルケ。

「あのルイズの表情は、幼い頃憧れていた年上の男性に思わぬ再会をした少女そのものよ。これが発展して、恋になるのもそう遠くはないわね」

 やけにピンポイントな気がするが、キュルケはそう断言した。
 サイトは彼女の何故か自信満々な態度に、衝撃を受ける。
 根拠は乏しい気がするが、こうも「間違いない」という雰囲気を醸し出されると、先ほどの顔を赤らめたルイズの表情も思い出され、何となくそれが正しい気になってきた。
 そんな風に半ば自分の世界にこもってしまったサイトをよそに、キュルケは傍らの友人に話しかける。

「と、いうわけで。タバサ、シルフィードを出してくれない?」

 突然話を振られたタバサは、「何故?」といった具合に首を傾げた。

「だってあのルイズが男と出かけたのよ? これは見に行くしかないでしょう?」

 まんま物見遊山といった態度で笑うキュルケに、タバサは眉を寄せる。
 そんなタバサの表情を見て、キュルケは先ほどまでとは種類の違った笑顔を浮かべると、やさしくタバサの頭に手を置く。

「それに、あなた昨日からどこかピリピリしてるしね。ちょっとは気分転換したほうがいいわよ?」

 キュルケの言葉に、タバサは目を見開き、わずかに体を強張らせた。
 そして、そろそろとキュルケを見上げると、暖かい眼差しでこちらを見つめている彼女が目に入る。
 その眼差しに恥ずかしくなったのか、タバサは彼女から視線を外すが、首を縦に振り先ほどの願いに応えた。

「ありがとう、それじゃお願いね」

 タバサにもう一度笑いかけてからのキュルケの言葉に頷き、シルフィードを呼ぶ。
 主人の呼び出しにすぐ応え降り立った竜に二人は乗り込んだ。
 では行こうか、と合図をしようとしたキュルケは、いまだブツブツと何事か呟いているサイトに気づき、声をかける。

「サイト、行かないの?」

 その声で、ようやくサイトは我に返った。

「えっ? あ、キュルケ? 行くってどこに?」

 先ほどまでの一連の会話を全く聞いてなかったらしいサイトに、キュルケは呆れたようにため息をはく。

「もう、聞いてなかったの? ルイズを追っかけようって話よ。行くの? 行かないの?」
「あ、ああ! 行く行く! 乗せてくれ!」

 サイトはそう言うと、慌ててシルフィードに飛び乗る。
 彼がしっかりと乗り込んだのを確認すると、タバサはシルフィードの背中を軽く叩き、飛び立つ合図をした。

















 アンリエッタと共に宮殿に帰ってきたアレクは、彼女がお着替え中なため、今の内にマザリーニに報告を済ませようと、彼の執務室に足を向けていた。
 宮殿内は、アンリエッタが帰ってきたばかりのためか、ちらほらと忙しそうに動いている使用人たちがいたが、表面上は概ねいつも通りのようである。
 だがアレクは、時たますれ違う参事官などが、どこかしらピリピリした雰囲気を漂わせているのを感じ取った。

 何事か起こったのだろうか、と内心首を捻りつつ曲がり角を曲がると、前方に人影が見えた。
 アレクは思わず立ち止まり身を隠すように一歩二歩と下がると、角から顔だけ出して、その人影を窺う。

 アレクの視線の先には二人の男女が立ち話をしていた。
 一人はそれなりに年のいった貴族の男性。
 もう一人の女性は、腰に剣を差していることと、比較的粗末な装備から見ると、平民の衛兵のようだ。
 帯剣するような身分の者が宮中にいること自体が珍しいが、それよりもその人物がアレクの見知った顔であったことが、彼に疑問を覚えさせた。

 5分程度そのまま立ち話をすると、一度辺りを窺うように首を巡らしてから、貴族の男性の方が歩き去っていく。
 アレクからはわずかにしか見えないが、頭を下げ男を見送る女の顔は、どこか複雑そうな表情をつくっていた。
 男の姿が見えなくなると、アレクは角から出て女に歩み寄り、その背に声をかける。

「ミシェル」

 その女性の衛兵とは、ミシェルであった。
 彼女は後ろからかけられた予期せぬ声に驚き身をすくめると、驚愕の表情のまま急いで振り返る。

「ア、アレクサンドル様!?」
「やっ」

 片手をあげて挨拶をすると、ミシェルの目の前まで進み、男が去っていった方を見る。

「今の方はリッシュモン高等法院長だろ? 知り合いなのか?」

 アレクがそう言うと、ミシェルは顔をこわばらせた。

「見ていらしたのですか?」
「ああ、失礼かと思って声をかけなかったんだが。何を話していたんだ?」

 ミシェルに向き直り尋ねるアレクに、彼女は逡巡するようにわずかに口ごもってから、ことさら何でもない風に答えた。

「いえ、とくに何も。ただ労いのお言葉をいただいたのみです」
「ふ〜ん、それにしちゃあ長かった気もするけど」
「あの、そろそろ警備に戻らねばなりませんので……」

 何か気になることでもあるのか、ジロジロと顔をのぞき込んでくるアレクから隠れるように顔を俯かせ、居心地悪そうに二の腕をさすっていたミシェルが、おずおずと上目遣いで言った。
 アレクは彼女と視線をあわせ、そのまましばらく見つめていたが、ふいっと顔を背けると口を開く。

「ああ、行って構わないよ。引き止めて悪かった」
「いえ、では失礼いたします」

 一礼してから急ぎ足で離れていくミシェルの背を、アレクは目を細めて見つめる。
 アレクはさっさと話を切り上げたそうな様子だったミシェルに違和感を感じた。
 さすがに立場上あちらから積極的に話しかけてくることはないが、いつもならアレクが話しかければ――さりげなく逃げ腰気味のアニエスとは違い――彼女は楽しそうにのってくる。
 しかし今日に限って、彼女はあまり長居したくはなさそうであった。
 やはりリッシュモンと何か話をしていたことが関係するのだろう。

 ミシェルが自分に何か重大なことを隠している気がして、アレクは若干落ち込む。
 彼女はある意味アレクの最も近い位置にいる女性だ。
 生まれ変わり、という不可思議な現象の体現者同士とでもいうのが良いだろうか。
 さすがに何でも話せとはいえないが、声をかけたときに見せた、あの青ざめた表情を思い出すと、アレクの胸中に不安がよぎる。

「―――あっと……突っ立ってる場合じゃなかった」

 アレクは我に返ると、自分は今マザリーニの執務室に向かっている途中だということを思い出す。
 懐中時計を取り出し見てみると、少なくない時間を使ってしまったようだ。
 あちらでの話しもそう早くは終わらないだろうし、下手に長引いてアンリエッタのもとに戻るのが遅れ、彼女の機嫌を損ねるのも良くない。
 彼はやや急ぎ足で、足を動かし始めた。





 数分もすると、マザリーニの執務室の扉が見えた。
 アレクは扉の前に立ち、呼吸を整えると、右手をあげノックしようとする。
 しかし、彼の手が扉に当たる前に、内側から開かれ誰かが出てきた。

「っと」
「ん?」

 驚いて横に避けたアレクに、中から出てきた人物が顔を向ける。

「失礼いたしました、マザリーニ猊下」
「アレクサンドルか、丁度いい」

 マザリーニに向かって頭を下げたアレクは、何が丁度良いのかと首を傾げる。

「お前がここにいるということは、殿下はすでにお戻りになられているのだな?」
「はい。ただ今お召し物をお取り替えになっていらっしゃっています」
「ん? ではすぐに伺うのはまずいか」
「あ、いえ……」

 アレクは一度言葉を切ると、頭の中でここに来るまでに使用した時間と、アンリエッタがいつも着替えにかかる時間を比べる。

「そうですね、今からゆっくりと向かえば、もうお済みになっている頃かと思います」
「そうか、では行こう」

 そう言ってマザリーニは、ゆっくりと歩を進めた。
 アレクは半歩遅れるかたちで、マザリーニの後を追う。

 アンリエッタの居室までの道中を、二人は無言で歩いていた。
 アレクはマザリーニの背を眺めながら、タバサとのことを話そうかと思っていたが、さすがに歩きながら話すのはあまり良くないだろうと考え直す。
 しかしできれば早く伝えた方が良いとも思う。
 とりあえず、どうするべきか、マザリーニに判断を仰ぐことにした。

「猊下」
「ん? どうした?」
「魔法学院の彼女のことですが」
「彼女? ……ああ、そうか、そんなことも命じていたな」

 マザリーニは初め「彼女」が誰を指しているか分からなかったようで、一瞬訝しげに眉を寄せたが、すぐに思い出したようで、合点がいった、とでもいうように和らげた。

「ここのところやけに忙しくてな、つい頭の隅に追いやってしまっていたようだ。ふむ、年を感じるな……。まぁそれはどうでもいいか。そうだな……今、はさすがにまずいか」

 くるりと辺りを見回すと、少し首を傾げて続ける。

「殿下に謁見が終わってからにするか。あちらの方がいまは重要だ」
「かしこまりました」

 アレクは頭を下げ了解しながら、内心首を傾げる。
 ガリアという大国の動向に関係してきそうなタバサの情報よりも大切な物とは何だろうか。
 隣国といえるアルビオンが内乱のまっただ中であり、その飛び火がこのトリステインにも降りかかってきそうな今、いくつか想像できることもあるが、アンリエッタに伝える内容で重要なものとすると、すぐには思いつきそうにない。
 アレクがその用事のことを考えているのに気づいたのか、マザリーニはチラリと目をよこし呟く。

「お前にも関係することだ」
「私に、ですか?」

 マザリーニの言葉に、アレクは意外そうに目を見張った。

「ああ、まぁ向こうに着いたら話す」

 そう言ったきり、マザリーニは黙ってしまった。
 なにやら思わせぶりなことを言われた分、余計に気になってしまったが、アレクの方から尋ねるわけにもいかない。
 なので彼は「はい」と答えた後、マザリーニ同様無言で足を進めた。





 アンリエッタの居室に着くと、まずアレクが扉を叩く。

「アンリエッタ様、よろしいでしょうか?」
「アレク? ええ、もういいわよ」

 すぐに返ってきた返事に、アレクはもう一言付け加える。

「マザリーニ猊下をお連れいたしました」
「枢機卿を? ……とりあえず入ってちょうだい」
「はい、失礼いたします」

 一度マザリーニに振り返り、彼が頷くのを確認すると、ゆっくりと扉を開き横に退く。
 部屋の中にアンリエッタと、彼女の着替えを手伝ったらしい女官が控えていた。

「失礼いたします、殿下」

 マザリーニは入り口で足を止めアンリエッタに礼をすると、足を進め彼女の目の前に跪く。
 アレクは女官が入れ替わりに出ていくのを待ち、中に入ると扉を閉め、マザリーニのために椅子を取りに行った。

「お疲れのところ突然の参上、まことに申し訳ございません」
「構わないわ。それで用は何?」

 アンリエッタはマザリーニに頭を上げるように言うと、余計なことはなしに、用事のみを尋ねた。
 その飾り気のない対応に、普通の貴族なら気を悪くするところを、マザリーニはむしろ気をよくしたようで、アンリエッタを誉めるように微笑むと、アレクが運んできた椅子に座り、一つ咳払いをしてから話し出す。

「はい、殿下にどうかこの老骨めの願いをお聞き届けになっていただきたく思い、こうして参りました」
「願い、ですか?」

 そう言うと、アンリエッタはそっと目を伏せる。
 マザリーニが自分に願い事をするなど、そうはないことだ。
 そんな彼が願い事をする、ということで彼女の頭にうかんだのは一つ―――ゲルマニア皇帝との婚姻話。
 学院に向かう前に、母マリアンヌと少し話をしたことを思い出したアンリエッタは、やはりどうにかなることではなかったのだろうと思い直す。
 そう考え気を落とすと、アンリエッタは弱々しく尋ねた。

「その願いとは?」
「はい、それは……」

 一度言葉を切ると、マザリーニは横目でアレクを見た。
 突然視線をよこされたアレクは、先ほどの「お前にも関係がある」というマザリーニの言葉を思い出し、気を引き締める。
 マザリーニは気落ちしているアンリエッタに、自分の願いを言う。

「一週間ほど、アレクサンドルをお貸しいただきたい」

 予想もしてなかった言葉に、アンリエッタはキョトンとする。

「アレクをですか?」
「左様にございます、どうかお許しを頂けないでしょうか?」
「なぜアレクを?」
「あるところに使いを頼もうかと」

 何故か場所を濁して言うマザリーニを、アンリエッタは訝しげに見る。

「あるところとは?」

 少し身を乗り出し、目を細めて言うアンリエッタ。
 マザリーニはその質問に初めて口を閉じ、何事か考えるように目を閉じた。
 しばし部屋が静寂に包まれた後、マザリーニが目を開ける。
 彼はアンリエッタと視線を合わせると、彼女の瞳に促すような光があったのを見て取ったのか、ため息を付つくと、観念したように口を開く。

「―――アルビオンです」

 強い風が部屋の窓を叩き、低い音を響かせた。




















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