澄み切った青い空の所々に、インクを飛び散らせたかのような黒い染みがちらつく。
 数時間後には戦場になるニューカッスルの上空には、そこに築かれるだろう屍肉の山を予感して集まったのか、二十羽ほどの烏の群が、まるで鳶のように旋回していた。
 鳴き声もあげずに、彼らはただ己の食事が用意されるのを、静かに待っている。

 ―――と、その内の一羽が群を離れ、眼下に見える城に向かって、ゆっくりと下降していった。

 黒々と染め上げられた翼を優雅にはためかせながら、その烏は城の外周をぐるりと一周すると、一つの尖塔の天辺にとまり、羽を休ませた。
 よく見てみると、その烏が足を落ち着けている塔の屋根や、近くに建つ他の塔の天辺にも、数羽の烏がとまっている。
 近くに餌があるわけでも、巣があるわけでもない。
 だが彼らはそこに一度とまると、その後は一切の身動ぎもせず、ただただ城の中―――ある一点を、その人形のような無機質の瞳で、注視し続けている。

 まるで元からあった風見鶏であるかのように動かず、時折吹く風に羽を波立たせながら。
 ずっと……ずっと―――





 背後から放たれた魔法の刃。
 まるでよく研がれた包丁を豆腐に通したかのごとく、不可視の風によって音もなく切り落とされた自身の左腕が床に着く前に、アレクの体は動くことを選択した。

「トマ! リュシー!」

 己の体の一部を奪った者が存在しているだろう背後を一顧だにせず、アレクは声を張り上げると、思い切り地を蹴った。
 彼の視線は、数歩先にいるウェールズにのみ向けられている。

 幼少時より重ねられた様々な訓練、その戦闘という分野においてアレクが割いた時間の多くは、ただ「アンリエッタを守る手段を学ぶ」ことに終始していた。
 そのためアレクが自分より高位の存在、または戦闘手段を持たない存在とともにいるときに、突発的なトラブルに遭遇すると、彼の思考は傍らの人物を「守る」もしくは「逃がす」ことを第一優先とする。
 常に守るべき存在が傍にいたアレクにとっては、『戦闘』とは『いかに戦闘をしないか』を模索することなのだ。
 半ば無意識のうちにそう考え動くほど、アレクは教師に無理矢理慣れさせられていた。

 この場でアレクの護衛対象となる存在は、目の前にいるウェールズのみ。
 未だ自身の背後で何が起こったか感じ取っていないらしい彼は、アレクの叫び声に反応して、足を止めていた。
 ウェールズがこちらに顔を向けようとする前に、アレクは走り寄りながら彼に怒鳴りつけるようにして声をかける。

「殿下! そのまま振り向かず、お逃げください!」

 しかしそうは言われても、人は咄嗟に反応することはできない。
 ウェールズはゆっくりと振り返る。
 きょとんとした表情のウェールズがこちらを視界に捉える寸前、彼の真後ろまで迫ったアレクは、残った片腕を目の前の人物の腰に回し、半ば抱えるようにして前に押し出す。

「な、何を―――」
「失礼いたします!」

 困惑した声色で発せられる問いを遮断し、アレクは一言だけ謝罪する。
 それに対する答えを待たずに、ウェールズをこの場から遠ざけようと、彼の体を押して全速力で駆けだした。
 背後に迫っている危機には頓着しない。
 アレクはともにいる仲間が何とかしてくれると信じている。

 そして二人はアレクの期待どおり、名前を呼ばれる前に行動を開始していた。

 トマはアレクの腕が飛んだ瞬間、その出来事を自身の脳が正確に把握するより早く、反射的に右手首を内側に折り曲げつつ振り返った。
 彼の目に写ったのは、黒いマントを羽織った長身の――おそらく――男。
 手には軍人などがよく持つレイピア型の鉄拵えの杖、それを振り切った体勢で持っている。
 顔は白い仮面に覆われているので分からなかった。

 しかし、たとえその不気味な仮面をつけていなくとも、トマは男の顔を注意して見ることはなかっただろう。
 彼が確認したかったのは、敵がどこにいて、どういう姿形をしていて、どう攻撃をするのがよいか判断できる材料だけだ。
 そこに敵の容姿はそれほど重要性を持たない。

 敵はメイジ、気配が感じられなかったことと、“エア・カッター”を使用したことから、おそらく『風』の使い手、それも上等な訓練を受けたであろう手練れ。
 メイジとの戦闘はまず接近戦に持ち込むことが重要だが、相手の詳細が分からず、しかも杖がナイフで断ち切ることができない鉄拵えのため、接近して攻撃を仕掛けるのは好手とはいえない。
 もし軍人だとしたら、近接戦闘も学んでいるだろうから、短時間で無力化は不可能だ。
 だからといってトマには、近距離以外で確実にメイジを打倒する手段は持っていない。
 そもそも今必要なのは、ウェールズをこの場から逃がすための僅かな時間をかせぐことだ。

 ならばすべきは、次に行われる『彼女』の一手がより有効になる下地をつくること。

 数瞬でそこまで考えたトマは、自身の体が開ききる前に、すでに袖口から取り出していた投げナイフを、振り返った勢いを利用して、低い体勢から仮面の男に投擲する。
 狙いは両足、速度を重視したせいかいささか狙いは甘いが、充分に命中する位置に飛んだ。
 床に対して浅い角度で横に並んだナイフ、今から魔法を詠唱しても迎撃には間に合わない。
 ならば受け止めるか躱すか―――

「―――ッ!」

 仮面の男は小さく舌打ちすると、軽く地面を蹴ってふわりと跳び上がった。
 トマが放ったナイフは、男の足の下を通過する。
 一瞬ともいえる程度の些細な時間、その僅かな隙に、トマの横にいる『彼女』―――リュシーの準備が整った。

「―――イーサ・ウィンデ……!」

 唱えたルーンは“ウィンディ・アイシクル”。
 空気中の水蒸気が氷結、ピキピキと罅が入るような音とともに、リュシーの前面には二十に迫る数の氷の矢が形成された。
 質より量を優先して作ったその矢は、一つ一つは三十サント程度の小さな物だが、まがりなりにもトライアングルクラスのメイジによって形作られた氷塊。
 当たり所によるだろうが、人を殺傷できる威力を備えている。
 その致命となりうる攻撃が、幅二メイル弱、高さ三メイル程度の廊下を埋め尽くすように、未だ空中にいる男に迫った。

 メイジである以上、“フライ”や“レビテーション”を唱えれば足場のない空中での移動も可能だが、ここは狭い室内。
 空間いっぱいに放たれ、壁のように迫ってくる多数の矢を躱しきることは不可能だ。
 取る手段は一つ―――迎撃。
 仮面の男は杖を振ると、並のメイジでは、けしてなし得ない速さで詠唱を終わらせた。

 ―――強風が吹く。

 仮面の男が唱えたのは、“ウインド・ブレイク”。
 リュシーが放った“ウィンディ・アイシクル”が男に直撃する寸前、渦巻く風がそれを正面から迎え撃った。
 結果は相殺、氷の矢は全てが砕け散って、小さな氷の粒がキラキラと舞い散り、局所的に起こった風の奔流は、何事もなかったかのように空気の動きを止める。
 そしてようやく男が地に降り立った。

 次はこちらの番だ、とでも言うように、男は詠唱を開始しようとするが、それより先に彼の視界は激しい煙によって覆われた。
 リュシーの魔法が放たれた直後、トマは次の行動に移っていたのだ。
 袖から出したのは先ほどのナイフとは違い、片手で包める程度の小さな袋。
 トマは男が地面に着くか着かないかという瞬間に、それを噛み千切った。
 中に燐を仕込んだ煙幕弾は、たちまちその中身を撒き散らされ、辺りを真っ白に染め上げた。

 もくもくと立ちこめた煙によって、標的の姿を隠された男は、鬱陶しそうな動作で視界を確保しようと、魔法を唱える。
 が、それが発動される寸前に、煙の向こう側から一本のナイフが飛んできた。
 まるでこちら側が見えているように、正確の顔に飛んでくるナイフを、男は仕方なくルーン詠唱を中断し、杖で払う。
 さらに追撃があるかと一拍おいて様子を窺うが、どうもその気配はない。
 男は改めて詠唱、風を起こして煙を払う。
 開けた視界の先には、案の定四人の姿形はなかった。

「―――ったく、面倒ったらありゃしない……」

 男の耳に、女性の声が入ってきた。
 どこか場違いな、ひどく気怠そうなその声を聞いても、男は驚きを見せなかった。
 何故ならその声の持ち主は、どこか物陰に隠れていたり、気づかない内に進入してきた者ではなく、先ほどからそこにいた人物であったからだ。
 男はその声の発生源に視線を向ける。

「なぁ、あんたも私に迷惑がかからないよそでやってくれりゃあよかったのに」

 マチルダである。
 彼女は一連の攻防――といっても時間にして三十秒かからない程度であるが――の間ずっと壁際に張りついて、一部始終を傍観していた。
 何もできなかった、というよりは、何もしなかったというほうが正しいだろう。
 どちらにも積極的に介入する気がなかったマチルダは、ただ煩わしげに顔を顰めていただけである。
 今し方アレク等に襲いかかった人物と一対一で相対しているにもかかわらず、逃げる様子もないマチルダに、男は問いかけるように杖を向ける。

「勘弁しとくれよ、私は別にあんたに敵対するつもりはない」

 わざとらしく怯えるように震えながら、マチルダは両手を上げて無抵抗を示す。
 どういうつもりか、と続きを促すように杖を軽く振る男に、彼女は詰まらなさそうに肩をすくめると、唇を軽くつり上げながら口を開く。

「私は今鎖に繋がれてるようなもんでね、あんまり自由がないんだ。どうにかしてその鎖を引きちぎりたいんだが、いい手がない。そこであんたに頼みがあるんだけど……」

 そこで一旦言葉を切って男の様子を窺うが、何も反応がないので、余計なことを言わずに話を進める。

「簡単言えばあいつ等を確実に始末して欲しいんだ。生憎その鎖のせいで私は協力できないけど、代わりに邪魔もしない。もしあんたがうまいこと始末できたら、私はあんたの仲間になるよ。あんた『レコン・キスタ』ってやつの一員だろ?」

 仮面の男の厳密な目的は推測できないが、現状でこのニューカッスルの城に忍び込む理由がある者といえば、現在叛乱を起こしている貴族派―――『レコン・キスタ』の構成員くらいしか思いつかない。

「『土くれ』のフーケって聞いたことあるかい? 仲間に組み込んでおいて損はないと思うけど?」

 現在の状況を鑑みるに、アルビオンの内乱は勝敗を決したといっても過言ではないだろう。
 しかしレコン・キスタの目的がアルビオンの王権ではない以上、これからに備えて優秀なメイジを一人でも多く確保できるのは、悪くない提案のはずだ。
『土くれ』としての活動はトリステインのみであったが、貴族のみを標的にしたことに加え、その盗難手段の内容から、国内外問わず名前は知れ渡っていた。
 もし相手が『土くれ』を知っていれば、この提案には乗るだろう。
 そう思える程度には、マチルダは自身の腕前に自負を持っていた。

 男は少しの間、無言でマチルダを見ていたが、不意に杖を下ろすと顔を別の方向に背ける。
 何か探すように辺りを見回していたと思うと、ある一点で目を留め、そちらに歩いていった。
 男が進む先には、先ほど切り落としたアレクの左腕が落ちていた。

 何も言わないが、ほぼ無防備に自身に背中をさらす男の行動に、マチルダは自分の要求が通ったと思い、上げていた両腕を下ろす。
 何とか言ったらどうなんだ、と文句が口をついて出そうだったが、心証を悪くするのは得策でないと考え、口をつぐむ。
 マチルダがじっとその行動を見ていると、腕を拾うためにかがみ込んだ男の仮面を通したくぐもった声が、彼女の耳に入り込んだ。

「土くれ、貴様に一つ尋ねたいことがある」
「……何だい?」

 こちらに視線も向けずにそう言ってくる男に、マチルダは訝しげに眉を寄せるが、次に放たれた言葉で、彼女はその顔色を一変させる。

「いや、この場合は―――マチルダ・オブ・サウスゴータと呼ぶべきか」

 マチルダは自身の顔から、すっと血の気が引くのが分かった。
 知られてはいけないはずの、自分の本名。
 不本意ながらトリステインの一部には身柄がばれているとはいえ、それ以外には自分の経歴が漏れるようなミスは犯さなかったはずだ。
 考えられることとしては、トリステイン側からの漏洩だが、そのことがばれてからまだそれほど日が経っていないこと、目の前の男がレコン・キスタであることから、その可能性は低く思えた。
 マチルダは一気に乾いた口を何とか動かしながら、咽の奥底から掠れた声を絞り出す。

「なん……で……?」
「何故俺が貴様の本名を知っているか、か? それは大した問題ではあるまい。それより、マチルダ・オブ・サウスゴータに聞きたいことがあるのだが」

 マチルダは答えることができなかった。
 相変わらずこちらに視線を向けずに、床からアレクの腕を拾いながら尋ねてくる男の背を、ただ見つめるだけしかできない。

「それというのは他でもない―――」

 男はアレクの左腕、その中指にはめられた『風のルビー』を抜き取りながら、何でもないことのように続けた。

「―――モード大公の遺児はどこにいる?」

 ―――瞬間、マチルダは床が抜けたような浮遊感を味わった。

 他者から出るはずのない問い、知られているはずのない存在。
 何故目の前の人物が『彼女』の居所を問うているのか、マチルダには理解ができなかった。
 全身から力が抜け、小刻みに――今度はポーズではない――震えだす。
 もはやまともな思考をできはずもなく、彼女はただ問い返すことしかできなかった。

「何で……何故? 何が……な、に……」
「知っているのだろう?」

 そこでようやく男はマチルダに向き直った。

「モード大公の遺児。人間とエルフの間に生まれた、禁忌の子。アルビオン王家の血を受け継ぐ子孫。いるはずだろう? サウスゴータの貴様なら知っているはずだ。さぁ教えてくれ、どこにいるんだ?」

 一歩一歩、じっくりと、そして踏みしめるように近づいてくる仮面の男。
 マチルダは下を向いたまま、小刻みに震え続けている。
 怯えているといっても相違ないであろうマチルダに相対する男は、そんな彼女の様子などまるで気にかけずに、仮面越しでも分かるほどの強い視線を向け、問いに答えるように促す。

「どこなんだ? まだアルビオンにいるのか? それとも貴様が活動していたトリステインか? 多少経歴が怪しくとも生活できるように、ゲルマニアにでも隠れ住んでいるのか? それとも最もエルフの住処に近いガリアか? まさかロマリアということはあるまい? さぁどこだ? どこにいるんだ?」

 男はマチルダを追いつめるように畳みかける。

「―――……れ」
「何だ? よく聞こえないな」

 未だ下を向いたままでいるマチルダの口から音がこぼれたが、男の耳には正確に入らなかったため、彼女の顔をのぞき込むように、自分の顔を寄せる。
 そして再度放ったマチルダの言葉は、確かに男に届いた。

「―――くたばれって言ったんだよ、クソヤロウ」

 廊下の壁、床、天井、いたるところが蠢き、凶器と化した。
 四方八方から大小形状を問わず、ありとあらゆる武器の形をとって、男に殺到する。

「チ―――ッ!」

 男は小さく舌打ちし、バックスッテップをしながら呪文を唱える。
 地面から放たれる無数の石つぶて、壁から生えてくる何本もの石槍、轟音をたてながら崩れ落ちてくる天井。
 熟練された体術と強力な魔法で、男はそのことごとくを避け、弾き、粉砕した。

「どういう、つもりだ……?」

 元の位置から五メイルほど離れた地点で、男は杖を構えながらそうマチルダに問いかけた。
 床がめくれ上がり、柱が崩れ去り、上階との垣根がなくなった廊下は、先ほどまでの豪華で静謐な装飾が見るも無残に破壊されている。
 マチルダの手にはいつの間にか杖が握られていた。

「どういうつもりもなにも……言ったとおりさ。あんたはここでくたばりな」

 右手に握った杖を男に突きつけながら、マチルダは剣呑な目つきで睨み付ける。

「おかしなことだ。先ほど貴様は仲間になると言っていなかったか? 交渉を持ちかけてきたのはそちらだろう? その相手に攻撃をしかけるというのは、理解できんな」
「別に理解してもらう必要はないね。あんたは余計なことを言い過ぎた、知りすぎた。だから死んでもらう、それだけだ」
「つまり―――」

 男は軽く杖を揺らす。

「―――やはりお前は知っているのだな、王家に連なる存在の居所を」
「答える必要は、ない」

 再度廊下のいたるところが変動し、男に襲い掛かる。
 しかし男が軽く杖を振り呪文を唱えると、室内でありながら局所的な竜巻が起こったかのように風が荒れ狂い、その悉くを粉砕した。
 マチルダは忌々しそうに舌打ちすると、再度杖を振ろうとするが、それより先に男が彼女に攻撃を仕掛けるのが早かった。
 まるで床を滑るように近づいてきた男は、マチルダの肩口に、そのレイピア型の杖を突き刺す。

「グ……ッ!」

 右肩に走る痛みに顔を歪ませ、マチルダは杖を取りこぼし、後ろに倒れ込んだ。
 男は彼女の杖を蹴り遠くにやると、目の前まで歩き進み、見下ろす。

「では話してもらうぞ」

 そう言う男を睨み付けながら、マチルダは後ずさりをする。
 すると、彼女の手に、何かが触れる感触がした。
 それを横目で見てみると、先ほど攻撃をくわえたときに男が落としたのであろう、アレクの左腕が落ちていた。

「さぁ話すか? それともここで死ぬか?」
「陳腐な脅し文句だね」

 マチルダは馬鹿にしたような笑みをうかべる。

「どっちも、お断りだよ」

 男の足下の床から、数本の石槍が突き出る。
 まさか杖を落としたマチルダが魔法を使えるとは思っていなかった男は、咄嗟に迎撃のための魔法を唱えることもできず、バックステップして何とか避けるしかなかった。
 その隙にマチルダは自身の周囲の床に“錬金”をかけ、床を抜くと階下に落ちていった。
 彼女の姿が下に落ちていくのを見た男は、できた穴に近寄り覗いてみるが、すでにそこには誰の影もなかった。

「予備の杖を持っていたのか……」

 落ちていく瞬間、マチルダの左手には杖が握られていたのを、男の目は捕えていた。

「まぁいい」

 最初の目的を果たすことを優先したのだろうか、男は穴を離れると、アレク等が去っていった方向に歩き出した。
 男の表情は、白い仮面に遮られ、見ることはできない。





 アレクはウェールズの横に並び、右手で左腕を押さえながら走っている。
 すでにウェールズには、敵の襲撃を受けたらしいことは話しているので、彼は険しい顔をしながら、一歩でも遠ざかろうと走っていた。

「アレクサンドル、傷は大丈夫か?」

 痛ましそうな表情でアレクの左腕を覗き込むようにしながら、ウェールズがそう尋ねた。
 アレクは一度己の傷口を横目で見てから、苦笑いをして答える。

「まぁ大丈夫ということはありませんが……あまり痛みはありません。ただ、血が止まりませんので、少しクラクラしてきました」

 確かにアレクの顔からは心なしか血の気が引き、青くなっていた。

 シュヴァリエに叙されアンリエッタの従者となってからはなくなったが、それ以前に彼に課せられた訓練は、それなり以上に厳しいものだったので、ときに大怪我をすることもあった。
 水の魔法をくらえば凍傷になる、火の魔法を喰らえば火傷をする、風の魔法を喰らえば切り傷ができる、土の魔法を喰らえば骨折をする。
 さすが王宮なだけに腕の良い治療師がいるので、アレクに訓練を施した者は、あまり手加減というものをしなかった。

 そのため比較的、怪我をすることには慣れているアレクだが、さすがに腕を切られるという経験はなく、正直現実味を感じない。
 今は突然のことで痛覚が麻痺しているのか、切り口から痛みを感じないが、そのうち経験したことがない感触を味わうことになるだろう。

「一度どこか部屋にでも入って、治療したほうが……」
「いえ、今はとりあえずできる限り離れましょう。殿下の安全を確保しなければなりませんし」

 そう、まずはウェールズを逃がさなければならない。
 だとすればどこに向かうのがいいだろうか。

「アレクサンドル様! 皇太子殿下! ご無事ですか!?」

 ウェールズをどこに送り届けるべきかアレクが考えていると、後ろから声がかけられた。
 足を止めずに背後を窺ってみると、トマとリュシーが走り寄ってくるのが見える。

「襲撃者は?」

 アレクは横に並び併走する二人に尋ねた。

「とりあえず目くらましをして撒いてきました。しかしそれほど時間は稼げないでしょう」
「どんな奴だった?」
「男です。背は百八十と少しくらいの長身。黒いマントを羽織っていたので体型は分かりませんでしたが、太っているわけでも、やせすぎているわけでもないようです。杖はレイピア型。白い仮面を被っていたので、顔は分かりませんでした」

 アレクの問いに、トマが答えた。

「アレクサンドル様、腕を」

 リュシーがトマとの間に入り、アレクの腕を取る。

「水の秘薬でもあれば、腕をつなげることもできますが……腕は置いてきちゃいましたね」
「『腕を置いてきた』って……なんかシュールだな」

 アレクはリュシーの言いように、何ともいえない表情をうかべた。

「……っと、そういえば申し訳ありません、殿下。『風のルビー』を奪われてしまいました」
「いや、仕方がないだろう。気にしなくていい。なに、取り返せばいいだけのことだ」

 申し訳なさそうに言うアレクに、ウェールズは首を振って答える。
 足を止めて頭を下げるわけにはいかないので、アレクは「ありがとうございます」と目礼をした。

「とりあえず止血だけでもしておきましょう」

 そうリュシーは言うと、杖を振りアレクの腕に“治癒”をかける。
 アレクは腕の治療をリュシーに任せると、視線をトマに戻し、襲撃者の話をさらに聞くことにした。

「相手はメイジだろう? 腕前はどうだったんだ?」

 その問いに、トマは少し考えるような仕草をする。

「そうですね……体術は相当なものだと思います。単純に近接戦をするにしても、まともにぶつかれば私では仕留めるのは難しいかもしれません。魔法の腕は、私はメイジではないので詳しいことは分かりませんが、ハッキリ言って並の軍人メイジとは比べものにならなそうでした」

 その言葉にアレクは驚いた表情になると、リュシーに目を向ける。

「そうなのか、リュシー?」
「ええ。私が放った“ウィンディ・アイシクル”を、発動後に唱え始めた“ウインド・ブレイク”で、完璧に相殺してましたから。詠唱速度と魔力操作が並ではありません。このアレクサンドル様の傷口も綺麗なものですし……『風』の、最低でもトライアングル、おそらくスクウェアクラスでしょうね。正面からぶつかって勝てるとは思えません」

 リュシーは腕の治療を続けながら答えた。

 なるほど、アレクの腕は、その生々しい傷口が見えることと、出血を続けていることから、切り取られたばかりだと分かるが、もしそのどちらもなければ、まるで以前から腕をなくしていたかのような、綺麗なものである。
 多少でも風の制御が拙ければ、傷口はもっと荒れたものだっただろう。
 幸いに――といっていいものかは判断しづらいが――相手の腕がよかったおかげで、むしろ傷は治しやすそうではあった。

 それはともかくとして、敵の腕がそこまでいいのなら、やはり早いところ何か対策を立てなければならない。
 ウェールズを抜かした三人で、襲撃者を無力化できれば、それが一番よかったのだが、実際に相対した二人がこうまで言うのならば、それは難しい―――というより、ほぼ不可能なのだろう。
 できれば少しでも早くニューカッスルから脱出をしたいが、おそらく船の乗り込みはまだ完了していないだろうから、そちらに向かえば非戦闘員に被害が出てしまう。
 かといってこのまま戻ると、ジェームズにも相手の手が及んでしまうかもしれない。
 ならば誰かが敵の足を止め、一人がウェールズを連れて応援を呼んできてもらうか―――

「そういえば……マチルダがいないな」

 併走する二人に目を向けたアレクが、宝物庫までは一緒にいたはずのマチルダがいないことに気づき、そう言った。

「……どうやら置いてきてしまったようですね。申し訳ありません」

 そういえば、と顔を顰めたトマが謝罪する。

「いや……仕方がないか。マチルダを気にかける余裕もなかったしな。少なくとも、彼女がこちらに危害を加えることもないだろう。それより―――止まれ!」

 話を続けようとしたアレクだが、視界の端、窓の外に見えたものに気づくと、ウェールズの腕を右手で掴み、足を止め、叫んだ。
 トマとリュシーがその声に反応して足を止めると、進行方向の左側、廊下の窓が甲高い音をたてて砕け散る。
 次いでそこから人影が飛び込んでくると、マントを翻し、アレク等に杖を突きつけた。

「さっきの襲撃者! もう追いついてきたのか!?」

 トマが驚愕の声をあげた。
 窓の外から飛び込んできたのは、先ほどアレクの腕を切り飛ばし、トマとリュシーが撒いてきたはずの、仮面の男だった。
 その男との間に、トマとリュシーが進み出て割って入る。
 何を、とアレクが声をあげる前に、トマが男を睨み付けながら口を開く。

「アレクサンドル様、殿下をお連れして、お逃げください。我々が足止めをしておきます」
「トマ……ッ!」
「その腕ではまともに戦えないでしょう?」

 確かに今のアレクでは、ここに残ったとしても足手まといだろう。

「これを持っていってください。応援をお待ちしております」

 先ほど渡した『始祖のオルゴール』を差し出しながら、リュシーが言う。
 アレクはそれを受け取ると、悔しそうに顔を顰めながら、二人に声をかけた。

「……頼んだ、すぐに戻る。では殿下、こちらへ」

 受け取った『始祖のオルゴール』をしまうと、アレクは戸惑ったように視線を揺らめかせているウェールズの腕を引っ張り、元の道を戻っていった。
 心なしか先ほどよりも速めに、二人は足を動かす。
 アレクの左腕は、リュシーがかけた“治癒”のおかげですでに血は止まっているが、段々と痛みが感じられるようになり、傷口から熱さを伝えてくる。
 その疼痛に顔をしかませながらも、速度を落とさずに、ただ淡々と走り続けている、と―――

「―――ッ!? 何故……?」

 アレクは前方に見えたものに、驚愕の表情になると、足を止める。
 後方にいるウェールズも気づいたのか、小さく驚きの声をあげたのが、アレクの耳に入ってきた。
 前方約二十メイル程―――そこからは、今トマとリュシーが足止めをしているはずの襲撃者である、仮面の男がゆったりと歩いて近づいてきていた。
 何故あの男がそこにいるか分からず、アレクの頭は困惑する。

 襲撃者は二人組だったのだろうか。
 しかし、遠目ではあるが、先ほど見た男と前方から近寄ってくる男は、その体型や動作を観察しても、別人には見えなかった。

「……そうか!? 風の、“遍在(ユビキタス)”―――ッ!」

 自身も『風』のトライアングルクラスであるウェールズが、その正体に思い当たり、忌々しげに顔を顰めてそう言った。
 この自然界に遍く存在する風、それが吹くところ、何処となく現れさまよい歩く―――『もう一人の自分』。
 距離は意志の力に比例し、自律行動をする分身を作り出す、『風』のスクウェアスペル。
 どちらが本体なのか判断はつかないが、それが正体なのだろう。

「アレクサンドル、どうする?」
「そう、ですね……」

 少しの間考え込んだアレクは、腰の後ろに手を回し、そこに隠し持っていたナイフを抜いた。

「私が引き受けます、殿下は走り抜けてください」
「しかし君一人では……」
「何とかします。どうか殿下は、御身のことのみをお考えくださいますよう。―――では、参ります」

 そう言うと、アレクは男に向かって走り出した。
 ウェールズは舌打ちすると、アレクのすぐ後ろに着くように追いかける。
 アレクの視線の先では、男がゆっくりとした動作で、杖を構えこちらに突き出すところであった。
 呪文を唱える様子がないことに訝しみながらも、アレクは己に注意を向けさせるように、ことさら愚直に突っ込んで、男の喉あたりにナイフを刺そうと、まっすぐ突く。
 男がそれをいなし、一瞬体勢が崩れた瞬間に、ウェールズは二人の横を走りすぎた。

「フッ―――!」

 アレクは相手の脇腹に向かって右足で蹴りを放った。
 男がそれを横に跳ぶようにして避けると、二人の位置は丁度半回転するように、入れ替わる。
 二メイル程の距離を保ち向き合うと、アレクは半身になり少し腰を沈ませた体勢で、ナイフを前に構え男を警戒しながら、眉を寄せて問いかける。

「わざと殿下を通らせたようにしか見えないな。どういうつもりだ?」

 しかし、男からの返答はなかった。

「答える気はない、か。まぁともかく……少し付き合ってもらう」

 目の前の男が“遍在”なのかそうでないのかは分からないが、もし本体だとしたら、現在トマとリュシーが応戦している方もいなくなるはずだ。
 逆もまたしかり。
 ならば目的は、時間稼ぎをしつつ、可能であれば男の―――殺傷。

 そう考えたアレクは、自然体で立っている男に向かって、ナイフを投げつけた。




















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