トリステインの王宮のある一室では、一人の男が椅子に座り人形と向かい合っていた。
端から見れば奇妙な光景ではあるが、その男の表情には、ふざけている色は微塵も見られなかった。
『それでは、そちらは順調であるということでよろしいのですか?』
男の正面にある小さな人形から、どこか冷たさを感じる、女性の声が発せられた。
「ああ、心配いらない。今の時点では、こちらに良いように向かっているはずだ」
『そうですか、それは安心しました』
男と人形は、余人には分からない会話を続ける。
どうやら仲間内ではあるようだが、その間にある空気はけして友好的には思えず、ただ淡々と事務的に会話をしているように感じられた。
話が一段落つくと、男はため息をついて背をもたらせる。
『お疲れなのでしょうか?』
気遣うような言葉ではあるのだが、その声色は本心から心配しているようではなく、どちらかといえば社交辞令といった風である。
男もそれに気づいているのか、表情を動かすこともなくこたえる。
「ああ、そうかもしれないね。なに、心配をしてもらうほどではない」
『そうですか、お体は大切になさるとよろしいでしょう』
「ありがとう。ところで……」
男が話を続けようとすると、不意に部屋の扉がノックされた。
発しかけた言葉を飲み込み、男は扉の外に向かって声をかける。
「何だ?」
「そろそろ見回りの時間です」
男が懐から懐中時計を取り出し時間を確認してみると、確かに見回りをしなければならない時間であった。
「分かった、今出る」
「よろしくお願いします」
男は立ち上がって、すぐ傍に立てかけておいた杖を取り自身の腰に差すと、椅子の背にかけてあったマントを羽織り、水差しからコップに水を注ぐとそれを飲み干してから、扉に向かって歩き出す。
扉を開けて外に出ると、魔法衛士隊の黒いマントを羽織った者が、敬礼をして出迎える。
「お疲れさまです」
「ああ、君も」
衛士は敬礼を解くと、男の背後―――室内をのぞき込むようにしながら尋ねる。
「何やら話し声が聞こえた気がするのですが……どなたかいらっしゃるのでしょうか?」
衛士の目には、誰もいない部屋しか見えない。
どこか変わったことといえば、男の趣味とは思えない小さな人形が、机の上に一つぽつんと乗っかっていることくらいだ。
男は一度室内を振り返り、扉を閉めると、衛士にこたえる。
「いや、誰もいないよ。君の気のせいだろう」
「はぁ……」
「ほら、早く行かなくてはまずいだろう?」
「はっ。そうですね、では参りましょうか―――ワルド隊長」
そう言って先導する衛士の後ろを、ワルドはいつも通りの笑顔をうかべ、着いていくのであった。
城門前にて簡単な問答をした後、アレク等四人は半ば拘束されるようなかたちで、ニューカッスル城に足を踏み入れた。
現在彼らがいるのは、城の片隅にある狭苦しい一室。
四方は冷たい石造りの壁に囲まれ、室内を照らす明かりは、壁の高い位置にある小窓から差し込む月明かりと、天井に吊るされた小さなランプのみ。
アレク達が座っている椅子以外には、調度品など何一つないこの部屋は、牢獄、といわないまでも、それに準じたものではあるように思えた。
四人がこの部屋に案内されてから、すでに小一時間は経過している。
明日には貴族派の侵攻が始まるということなので、アレクとしては早いところ用事を済ませたいのだが、やはり易々とウェールズに会わせてはくれないようだ。
書簡に捺印されていた官印は、確かにマザリーニの物であると、先ほどまでいた衛士たちも確認していたようなので、さすがに自分たちが貴族派の工作員などではないと分かってもらっているはずだが、万が一の可能性を考えて、今はこうして監視されているのだろう。
一通り室内を見渡してみたが、覗き穴の類はなさそうなので、おそらく“遠見の鏡”で監視しているのだろうか。
部屋の中にはアレク等の四人しかいないが、扉の向こう側では何人かが聞き耳をたてているかもしれない。
心なしか視線を感じるので、余計なことをせずに待っていた方が良いだろう。
ウェールズが自分の姿を確認すれば、自分たちがトリステインの者であるということも判明する。
何分彼にあったのは四年前のことなので、忘れられている可能性が有り得るが、さすがにマザリーニの官印がなされた書簡を携えている自分たちを、処断することはないと思う。
もっともその場合は、すぐさま城から追放されるだろうから、それはそれで困るのではあるが。
さらにアレクとしては、面通しを済ませて無事にジェームズに謁見できたとしても、そこからもちょっとした問題がある。
出発する際に、マザリーニから言い渡された、『始祖の秘宝』の確保以外の命令。
おそらくそれをジェームズに要請すれば、少なからず反感を買うだろう。
それをいかに穏便に聞いてもらい、そして確実に叶えてもらうためにどうすればいいのか、道中も必死に考えていたのだが、良い考えはうかばなかった。
やはり真っ正面から率直にいくしかないのだろうか、とアレクは不安げに顔をしかませる。
「おや? 誰か来たようですね」
今まで目を瞑ってじっとしていたトマが、瞼を開くと不意に声をあげた。
その声を耳にしたアレクは、ハッと我に返り思考を一旦止め、顔を上げて扉に視線を向けると、聞き耳をたてる。
するとこの部屋に近づいてくる数人の足音が聞こえたので、確かにトマが言ったように誰かが向かってきているようだ。
残りの二人もトマの言葉に反応し、リュシーは顔色を変えず、マチルダはどこか嫌悪を感じさせる表情で、それぞれ扉に顔を向ける。
足音はやはり部屋の前で止まり、外で何やら言葉を交わしているのが聞こえたと思うと、ゆっくりと扉が開いた。
まず入ってきたのは二人の男。
アレク等も見覚えがある彼らは、城門にいた三人の内の二人である。
そしてその二人の衛士の後ろにちらりと見えた人物。
アレクはその人物を確認すると、椅子から立ち上がりその場に跪いた。
トマとリュシーもそれに倣い、マチルダも――彼女の場合はその人物から顔を背けるかのように――膝をつき頭を垂れた。
「久しぶりだね、アレクサンドル」
そう言って二人の衛士の後ろからにこやかな表情で歩み出てきたのは、アルビオン王国皇太子であるウェールズだった。
どうやら自分のことは忘れられていなかったようなので、アレクは安堵の息をつく。
顔を上げて立つように言うウェールズに従い、アレクは立ち上がると彼に向かって挨拶をする。
「皇太子殿下におかれましては、お変わりなく。本日こうして殿下のご尊顔を拝し奉りまして、このアレクサンドル、恐悦至極に存じます」
鯱張った―――というより、平時と変わらぬ様で声をかけてくるアレクに、ウェールズは苦笑いして彼の肩を叩く。
「そう畏まらないでくれ。どうせ亡国の皇太子だ、機嫌を窺う必要もない」
そう言われてもアレクとしては何と返事をすればいいのか分からず、彼は曖昧な表情をつくった。
アレクの表情を見たウェールズは、少しばつが悪そうな顔になり頬を掻くと、話を逸らすように尋ねてきた。
「アンリエッタは元気かい? 最後に会ったのはもう四年も前だ、今は十七だったかな? さぞかし美人になったんだろうね」
話を変える目的はあったのだろうが、真っ先に出てくる話題がアンリエッタに関することだということに、アレクは何となく微笑ましさを感じ、頬をゆるめた。
もっともウェールズとアレクに共通する世間話など、アンリエッタのこと以外にはないので、当たり前といえば当たり前であるが。
「はい、それはもうお健やかにお育ちになられています。もはや一人前の淑女といっても過言ではないでしょう。もっとも、時たま宮殿を抜けだそうとする癖がでるのは、困りものではありますが……」
「ははっ! そうか、アンリエッタらしい」
王族に対して一介のシュヴァリエが口にすることではないが、ウェールズが気にはしないことを見越して、アレクはアンリエッタの近況を話した。
アレクの想像通り、そういう話を期待していたのか、ウェールズも顔をほころばせた。
そして、楽しそうに笑っているウェールズを見て、アレクは何か迷うように視線を惑わせると、一度息を吸ってから続ける。
「―――ウェールズ殿下にお会いしたいと、そうも仰っておられました」
その言葉に、ウェールズは不意をつかれたような顔になり、一瞬息を止め、
「―――ああ……」
そして己の身の内に溜まったナニカを出し切るように、息を吐き出す。
「そう、だな……私も会いたい、な……」
それは確かに心の底からの願いであったように、アレクは感じ取った。
だが、ウェールズはそれが不可能であると、叶わない願いであると確信し、諦観してしまっているのだろう。
僅かに震えた声色には、様々な想いが乗せられているようだった。
ウェールズはしばしの間目を瞑り何かに堪えているようだったが、不意に瞼を開けると、額を抑え苦笑いして、アレクを見る。
「アレクサンドル。君は―――酷い奴だな」
「申し訳ございません」
「いや、構わないよ。ありがとう、嬉しかった」
神妙に頭を下げるアレクに、ウェールズは淡く微笑んだまま首を振る。
「それで、君たちがここに来たのは何故なんだ? 確かマザリーニ枢機卿から、密書を言付かっているとのことだが……」
平静を取り戻したらしいウェールズは、本題にはいることにしたのか、そうアレクに尋ねた。
アレクも先ほどまでの話を引きずろうとせず、胸を押さえながらその問いに答える。
「はい、確かにここに」
「ふむ、では預かろうか」
そう言ってウェールズは手を差し出すが、アレクは彼の手をやんわりと押さえる。
「申し訳ございません。これは直接ジェームズ陛下に、とのことですので」
「そうか……なら構わないよ」
とくに気分を害した様子もなく、ウェールズは差し出した手を引っ込めた。
そして体を扉に向けつつ、アレクと彼の後ろにいる三人に向かって、声をかける。
「これから城のホールで、ささやかなパーティを催すことになっている。君たちも是非出席してくれ。陛下もご出席なされるので、密書はそこで渡すといい。パーティが終わった後、陛下のお部屋で、といことなら、私が案内をしよう」
「殿下のご厚意、感謝いたします」
「ああ。では、行こうか」
笑顔で頷くと、ウェールズは扉の外に出ていった。
アレク達もその後を追う。
部屋の外にはさらに二人の衛士たちがいた。
彼らはウェールズが出てきたのを確認し、その後ろのアレク達に一度だけ視線を向けると、先導するように歩き出す。
ウェールズとアレク達が部屋から出ると、先に部屋に入ってきた二人の衛士は、アレク達のさらに後ろについた。
四人の衛士に挟まれるかたちで、ウェールズを含めた五人は、パーティの会場であるホールに向かって足を進める。
「パーティではこの日のためにとっておいた様々なご馳走が出される。最期の宴だからな、豪勢にいきたい。君たちもそんななりではあまり良くないな。着替えを用意させよう」
道中ウェールズがアレク達の服に目を向け、そんなことを言った。
確かにアレク達の服装は、ニューカッスルに着くまでの道のりでボロボロになっており、お世辞にもパーティに適しているとは言えない有様である。
アレクはウェールズの気遣いに感謝の意を表し頭を下げ、次いでやはり気になったことを尋ねてみる。
「やはり殿下方はこの場で討ち死になさるおつもりで?」
その質問に、ウェールズは「何を当たり前のことを」と言わんばかりの表情で頷く。
「ああ、我々は叛徒どもに王家の誇りと名誉を示さなければならない。勇気を示さなければならない。ハルケギニアの王家はけして弱敵ではないと、そうレコン・キスタに分からせなければならないのだ」
その決心は固く、情に訴えようとも、駆け引きをしようとも、ウェールズ等がそれに乗ることがないのが見て取られ、アレクは憂鬱げに目を伏せた。
その様子を見たウェールズは、アレクが何を思ったのかを理解したのかはさて知らず、まるで元気づけるように話し出す。
「物見によれば、貴族派の軍勢はおおよそ五万。対して我々はたかが三百。確かに勝ち目はないな。しかし、志気は我々の方が圧倒的に勝っていると自負している。そう易々と倒れることはない」
それに、と少しいたずらっ子のような表情になって続ける。
「実はここしばらく海賊に扮して、航路をうろついていたんだ。すると今朝、ラ・ロシェールからの船を捕まえてな。なんと積み荷が硫黄だというではないか。タイミング良くこれを手に入れた我々は、ついているのだろう。叛徒どもに、手痛い一撃を食らわせられる」
少しでも貴族派の戦力を軽減させるために、ウェールズは自ら海賊に扮し、他国から貴族派に火薬などを売りに来る商船を、ひっそりと襲っていたらしい。
現在アルビオンでは、火の秘薬である硫黄などは、黄金並の高値で取り引きされることもあるので、それを狙って売りに来る者達はそれなりに多くいる。
そして今朝、ラ・ロシェールから来た『マリー・ガラント』号という船を捕まえたところ、その積み荷が硫黄であり、問いただしてみれば、それを貴族派に売りつけるところであったということなので、これ幸いと奪ったとのことだ。
そんなことを自慢げに話すウェールズを、アレクは微妙な表情で見つめ、どうするかと少し考えてから、とりあえず一言いっておこうと思った。
「あの、殿下……」
「うん? どうした、アレクサンドル」
首を傾げながら尋ねてくるウェールズに、アレクは怖ず怖ずと言葉を続ける。
「その『マリー・ガラント』号は、ラ・ロシェールからの船ですよね?」
「ああ、そうだが……それがどうかしたのか?」
「ええ、何というか……一応私もトリステインの貴族なわけでして。その……そんな堂々と『トリステイン国籍の船の積み荷を奪取した』と仰られても、反応に困るのですが……」
トリステイン側としては貴族派に兵糧その他が渡らないのは、ありがたいことではある。
公式に商業取引などを規制できないため、貴族派に物資を売りに行く船を押し止めることはできないので、そのウェールズの行動はトリステイン政府としては、歓迎すべきことといえなくもない。
だからといって、ウェールズが拿捕したという船が、トリステイン国籍のものであるということは事実であるので、そう大っぴらに「襲った」と言われても、アレクとしては笑って済ますのもどうかと思ってしまうのだ。
さすがに文句を言おうという気はないが、ちょっと配慮してほしかった。
「……あ」
ウェールズも思い当たったのか、気まずそうに顔を背ける。
「―――君たちは着替えてくるといい、場所は案内をつけよう。私は先にホールに行っている、では」
微妙な雰囲気を払拭するかのように、ウェールズは無理矢理話を換えそう言うと、スタコラと足早に去っていった。
アレクはどんどん小さくなっていく彼の背を、ため息をつきつつ見送るのであった。
今アレクの目の前では、王党派の貴族等が大いに宴を楽しんでいる。
ウェールズが言っていたとおり、この日のために取っておかれていたのだろう様々なご馳走が、これでもかというほど並べられ、王党派の人々は、まるで園遊会のごとく着飾り、この豪華なパーティを楽しんでいた。
貴族だけでなく、給仕に励む使用人達にまでも酒を振る舞い、彼らはこの最期の一時を精一杯謳歌している。
アレクは会場の上座に視線を移す。
そこには簡易の玉座がおかれ、その上に腰掛けた年老いた国王―――ジェームズ一世が、集まった貴族や臣下を、目を細めて見守っている。
先ほど、パーティが始まる際に、ジェームズから簡単な挨拶があった。
彼は「諸君等が傷つき斃れるのは見たくない、暇を与える」と言った。
それに対する王党派の答えは―――“否”。
彼らが待ち望んでいる命令はただ一つ。
即ち―――“全軍前へ! 全軍前へ! 全軍前へ!”
非戦闘員を抜かして、この場にいる誰一人とてニューカッスルの城から脱出することなど考えてはおらず、最期の最期まで戦い抜く覚悟を持っている。
アルビオン伝統の『ノブレッス・オブリージュ』、高貴な者の義務を果たすべく、彼らはここで滅びることを是としているのだ。
アレクとしても、それを否定するつもりはない。
生まれが特殊なためか、ハルケギニアの一般貴族と比べれば『誇り』や『名誉』という部分については、いささか比重が軽い彼ではあるが、仮にも二十年以上こちらで育ち教育を受けてきたため、それが貴族にとって重要なことであり、蔑ろにしていいものではないということは理解できる。
彼らがこの城から脱出せず、レコン・キスタに抗うのは『義務』なのだ。
何のための貴族なのか、なんのための王なのか。
ここでレコン・キスタに背を向けるということは、彼らにとって自分たちは貴族ではないという証明になってしまうのだ。
それが理解できてしまうこそ、アレクはこれから自分がしなければならないことに、躊躇いと―――そして恐怖を覚えるのだ。
「楽しんでくれているか? アレクサンドル」
壁際でずっとパーティを眺めていると、不意にそう声がかけられた。
アレクがそちらに顔を向けると、そこにはグラスを持ったウェールズが微笑んでいた。
彼も着替えたのだろうか、先ほど会ったときとは違い、様々な装飾品をしつらえた格好に変わっていた。
「はい、殿下。私なりに楽しんでおります」
「そうか、それは良かった」
アレクの返事に、ウェールズはそこここからかけられる貴婦人や臣下からの歓声に応えながら、嬉しそうに頷いた。
「連れの人たちは?」
その言葉にくるりと会場内を見渡すと、貴婦人に声をかけているトマ、貴族に声をかけられて微笑んでいるリュシーの姿が見えた。
ウェールズにも彼らが貴族ではないことは伝えているが、今回は特別に、ということで、それなりの衣装を借り受けて、パーティに参加している。
元々二人とも見映えはよいので、自然にとけ込めているようだ。
「各々好き勝手にしているようですね、申し訳ございません」
「いや、構わない。楽しんでくれればそれでいいさ」
頭を下げるアレクに、ウェールズは気にしないようにと手を振る。
アレクはそれに、曖昧な笑みをうかべて応えた。
ウェールズはアレクがうかべた表情に疑問を覚えて首を傾げるが、とくに意味はないのかと考え、話を換える。
「ところでアレクサンドル。君が持ってきた密書とやらはどうする? 何なら今陛下に渡した方がいいと思うがね。陛下もそれなりにお酒を召していらっしゃる。遅くなれば、もしかするとまともに話ができなくなるかもしれないぞ?」
冗談を言うように、笑みをうかべながらそう口にしたウェールズに、アレクは背中に冷や汗をかいているのを実感しながら、同じく笑みをうかべて応じる。
「そうですね。では、お願いできますでしょうか?」
「おやすい御用だ」
そう言うと、ウェールズはジェームズに引き合わせるために、アレクに背を向け、玉座に向かって歩き出した。
アレクはウェールズの後を追いながら、一度会場を見渡し、トマとリュシーの姿を確認する。
すると、そういえばマチルダの姿が見あたらないことに気づき立ち止まった。
この会場に来るまでは、不機嫌そうな顔をしながらも、着いてきてはいたはずだ。
もしかしたら抜けだしたのだろうか。
彼女の生い立ちを考えると、アルビオン王政府に関わるということは、自身の心の平静を保つためには、あまり歓迎すべき事ではない。
もっと言えば、ジェームズは彼女の両親の敵ともいえる存在なのだ。
もちろんその子であるウェールズや、彼らに付き従う貴族達にも、良い印象は持っているはずもないのであろう。
そんな彼女からすれば、このパーティは楽しめる要素が欠片もないため、この場にいることが不快になり、どこか抜けだしたとしてもおかしいことではない。
しかし、さすがに彼女に単独行動を取らせるわけにはいかない。
いろいろと考えることがあったので、注意が逸れていたことに、アレクは己のミスを覚り、顔を顰めた。
彼女に“ギアス”がかかっている以上、おかしな真似ができるとは思えないが、いささか放っておけない事態ではあるので、何らかの手段を講じなければならない。
どうするか、と考えを回らそうとすると、急に立ち止まったアレクを訝しく思ったのか、先を歩いていたウェールズが歩み寄ってくる。
「どうしたんだ?」
さすがにマチルダの正体をウェールズに覚られるわけにはいかないので、アレクは適当に口を濁すことにした。
「申し訳ございません。少々連れに言っておかなければならないことがありますので、先にそちらを済ませてもよろしいでしょうか?」
「ああ、構わない。では、私は陛下に話を通しておこう」
「ありがとうございます」
立ち去っていくウェールズの背中を横目に、アレクはトマとリュシーに近づいていく。
「トマ、リュシー」
ある程度近づいたところで声をかけると、二人はそれぞれ話していた人物達に断りを入れてから、アレクに近寄ってきた。
アレクは二人と共に会場の隅に歩いていく。
「いかがなさいました?」
会場の隅に腰を落ち着けると、トマがアレクの尋ねる。
「マチルダがどこにいるか分かるか?」
その問いに、リュシーが少しの間目を瞑ったかと思うと、スッと会場の一角を指し示した。
「あちらのバルコニーに、一人でいるようです。ここに来てから少しすると、すぐにあそこに足を向けていたので、それから動いてはいないようですね」
「分かるのか?」
「はい、それほど細かくは分かりませんが、大まかな位置なら特定できます。遠く離れていても難しいですが」
位置が分かっているならそれほど気にしなくてもいいかと一つ頷くと、アレクは少し考えてから、二人に指示を出しておく。
「とりあえず、できるだけマチルダの傍にいてくれ。できれば視界内に収めるように。彼女自身“ギアス”をかけられているという自覚はあるから、そう下手な真似はしないだろうが、少し心配だからな」
二人が頷いたのを確認すると、アレクは続ける。
「俺はジェームズ陛下に拝謁してくるから、よろしく」
「大丈夫なのでしょうか?」
二人にはあらかじめ、マザリーニから出された指令を伝えているので、これからそれをジェームズに要請してくるというアレクに、少し心配そうな目を向ける。
アレクはぎこちない笑みをうかべると、肩をすくめながら口を開く。
「さぁ? 少なからずご気分を損なうだろうが、さすがにそれほど重い処罰は与えられないだろう……多分、きっと、そうだといいなぁ……」
言っている間に自分でも自信が無くなってきたのか、アレクは少しずつ声から元気をなくしつつ、若干項垂れ気味にそう言った。
トマはそんなアレクの様子をいささか頼りなさそうな者を見る目で見つつ尋ねる。
「どのようにお頼みするのですか?」
「正面から正直に、だな」
今の王党派の雰囲気を見ると、駆け引きもできないうえ、変に回りくどく言ってみたところで、良い効果は期待できそうにない。
アレクがそう言うのに、トマも反論があるわけではないらしく、首を縦に振って同意した。
良い手、というわけではないが、他に手段はないといったところだろうか。
「それじゃあ、行ってくる。後はよろしく」
「はい、お気をつけて」
気をつけてどうなるものでもないが、気休めにはなるだろうと、二人はアレクにそう声をかけた。
アレクはそれに淡く微笑みを返し、ジェームズの元に向かっていく。
玉座に腰掛けたジェームズの左右には、それぞれ一人ずつ控えている。
一人はウェールズ、もう一人は背の高い年老いたメイジであった。
アレクが近づいていくと、何やら楽しげに言葉を交わしていた三人は、自分たちに近づいてくる男に気づいたのか、そろって視線を向けてきた。
緊張に身を強張らせながらアレクはジェームズの前に歩み寄り、三メイルほど手前で立ち止まると、その場に跪いた。
「よくぞ参られた、面を上げよ」
「はっ」
ジェームズの言葉に従い、アレクは頭を上げる。
「何やらマザリーニ枢機卿より、朕に密書があるとか。いかな用だろうか?―――ああ、それと使者殿の名は何と申すのかな?」
すでにウェールズに聞いていたのだろう、アレクがこの場に現れた用件を尋ねつつ、名を聞いてきたジェームズに、真っ直ぐ視線を合わせたまま、口を開く。
「はっ。私はアレクサンドル・シュヴァリエ・ド・サン・ジョルジュと申します。陛下におかれましては、ご歓談中にも関わらず、こうして私ごときのためにお時間を割いていただいたことに、謝意を申し上げ奉ります」
「よい、卿らはこのアルビオン王国の最後の客人だ。この老骨であれば、いくらでも相手をしよう」
「―――はっ。陛下の寛大な御心に感謝いたします。つきましては……」
そう言うと、アレクは懐にしまってある書簡を取り出すと、再び頭を垂れながら、それをジェームズに差し出す。
「マザリーニ枢機卿猊下より、陛下に密書を言付かっております。どうかお目通し願いたく存じます」
その言葉に、ジェームズは一つ頷くと、傍らに立つ老メイジに声をかける。
「パリー、受け取れ」
「はい、陛下」
パリーと呼ばれた老メイジは、ジェームズの指示に従いアレクに歩み寄ると、その手から書簡を受け取る。
そして元いた位置の戻ると、その書簡の封を切ってから、開かずにジェームズに渡した。
受け取ったジェームズは、皺だらけの手でそれを開き、ゆっくりと読み進める。
アレクは緊張に、握りしめた手のひらに汗が滲むのが分かった。
書簡に書かれた内容は、大まかに言えば二つ。
一つは主となる『始祖のオルゴール』、そしてついでではないが、同じく王家に伝わる『風のルビー』の譲渡願い。
ゲルマニアとの同盟に必要な道具として、アレクが是非とも持って帰らなければならない品である。
これに関しては、王党派としては自身等が倒れた後、レコン・キスタに渡るだろうことを考えると、トリステインに譲渡するのに、難色を示すとは思わないので、アレクは断られることはないだろうと予測している。
が、問題はもう一つの内容―――
「―――ふむ」
書簡を読み終わったらしいジェームズが、一度息をはきだして顔を上げる。
「パリー、火を」
「はっ」
ジェームズの言葉を受け、パリーが直ぐさま――あらかじめ用意していたのだろうか――灯のともった燭台を持って近寄ると、そこに書簡をくべて燃やす。
燃え尽きたのを確認したジェームズは、玉座に深く腰をかけ直し、目を瞑った。
アレクがそれとなくジェームズの顔をのぞき込むが、その表情から何らかの感情は窺えそうにない。
彼の左右に控えているウェールズとパリーは、そんな王の様子に訝しげに眉を寄せ、何が書いていたのだろうかと、横目でアレクを見た。
しばらく無言のまま時間が過ぎる。
どういう反応をされるのだろうか、と気が気でないアレクにとっては、この時間は精神を徐々に削っていくものだった。
傍らにいるウェールズとパリーは、王の様子に何かを感じ取ったのか、何も口を挟まずにじっと立ちつくしている。
すると、ジェームズがようやくその瞼を開けた。
「使者殿……サン・ジョルジュと申したか」
「はっ」
声をかけられたアレクは、姿勢を正す。
「この、書簡に書かれている内容……『始祖のオルゴール』と『風のルビー』の引き渡し願い、これは構わん。レコン・キスタの手に渡ることを考えれば、トリステインの手に委ねるのは良い」
「ありがとうございます」
「―――が」
続けて放たれるだろう言葉に、アレクは身を強張らせた。
ジェームズは心なしか声を低くして、次につなげる。
「その後の一文……。『ジェームズ一世陛下ならびにウェールズ殿下以下、アルビオン王国の貴族諸兄につきましては、けして命を粗末にすることなく、ハルケギニアの平和に尽力していただけるものと存じます』とは……どういう意味なのだろうか?」
「―――な……ッ!」
父王の口から語られた内容に、ウェールズは驚きを露わにして、アレクに視線を向けた。
しかしアレクはウェールズを見ることなく、じっとこちらを見下ろしているジェームズに視線を合わせ、一度深く深呼吸して気分を落ち着かせてから、口を開く。
「どういう意味かと尋ねられましても、私めにはそのままである、としか申し上げられません」
「つまり?」
「つまり―――」
一旦息を止め、僅かに震える声で、アレクは続けた。
「―――陛下ならびに殿下、そして正統なるアルビオン王国の貴族の皆様方には、このニューカッスルの城より―――即時撤退を上申いたします」
一瞬、アレクの耳には、会場内のざわめきが消え去ったかのように感じられた。
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