この日の宮殿は、あちらこちらで使用人達が慌ただしく動き回っていた。
 何故かというと、本日この宮殿にて舞踏会が開催されるからである。
 宮殿の中にある大広間には、豪奢な飾り付けが施され、普段は貴族といえどそう食することができない食材が、一流の料理人の手によって調理され並べられていた。

 舞踏会は娯楽としてのだけでなく、貴族の社交場としての要素も多く含まれている。
 そのため国中から招かれた貴族は、装飾品だけでなく、服の生地から髪や髭にも気をつかい、財を惜しみなく使い飾り付けられた豪華な衣装を着飾り、己の財力を見せびらかすようにしていた。
 さらに宮殿の前には、その貴族達が乗ってきた馬車が所狭しと並び、中には自分の領地から連れてきた使用人や護衛達が、己の主の権力を誇示するかのように、ビッシリと詰めている。
 それに加え、貴族が多く集まるため、宮廷に勤めている衛士達もいつもの人数の倍以上を設置しているので、この日の宮殿の人口密度は、普段の何十倍にもなっていた。

 その中をアレクはアンリエッタの私室へ向かい、足を進めていた。
 もう大広間の準備も完全に終わり、後は彼女の登場をもって舞踏会が始まろうとしているので、呼びに行こうとしているのだ。
 アンリエッタの部屋の前に着き、扉の両側に立っている衛士に礼をすると、ノックをして声をかける。
 すると中から男の声で「入れ」と返答がきた。
 失礼いたします、と言い、中へ入るアレク。

 部屋の中心には、いつもより華やかな桃色のドレスで着飾ったアンリエッタ。
 彼女の前には舞踏会前にご機嫌伺いに来たのであろう、数人の貴族がいる。
 アンリエッタはそんな連中に辟易としていたのか、アレクが入ってきたのを見ると、ホッとしたような顔になった。

「アレク、準備はもう終わったのですか?」
「はい、滞りなく終了いたしました。後はアンリエッタ様にご足労頂くだけでございます」

 アレクがそう言うと、アンリエッタは椅子から立ち上がり、周りにいる貴族達を見回す。

「では、参りましょうか。皆さまも大広間の方へ」

 アンリエッタにそう言われ、周りの貴族達は、自分たちの挨拶を中断されたことに不満そうにしながらも、彼女に頭を下げてから順々に扉へ向かう。
 その際彼らは、扉の脇にひかえているアレクを、忌々しそうに睨み付けた。
 アレクが来たことによって挨拶が中断したので、彼が王女と話をするのを邪魔したのだとでも思ったのだろう、中には露骨に舌打ちする者もいる。
 それらをアレクは無表情に頭を下げつつ見送り、アンリエッタは眉をひそめつつも、ここで貴族達を注意すれば、後々彼が何らかの嫌がらせを貴族達に受けることが分かるので、何も言えない。
 彼らが出ていくのを見送ると、アンリエッタはため息を吐きつつもう一度椅子に座り込み、アレクに顔を向け詫びの言葉を口にする。

「ごめんなさいね、アレク。私に力がないせいで、嫌な思いをさせて」
「いえ、お気になさらずに。アンリエッタ様のせいではございません」

 そう言ったものの、アンリエッタの顔色は申し訳なさそうなまま変わらない。
 なのでアレクは、話を転換させようと、全く違うことを口にする。

「今日のお召し物はとても似合ってらっしゃいますね」
「そ、そう? このドレスは特注で作らせてみたの。アレクは似合うと思う?」
「はい。アンリエッタ様はいつもお綺麗ですが、今日は一段と際だって見えます」

 アレクがそう言うと、アンリエッタはほんのりと頬を染めた。
 どうやら切り替えはうまくいったようだ。
 彼女の顔色は、先ほどまでと打って変わって喜色に彩られる。
 アレクはそれに笑みを浮かべると、では大広間の方へ、と声をかけた。

「そのまえに母さまご挨拶にいかなきゃ」

 アンリエッタがそう言ったので、二人は彼女の母である、太后マリアンヌの私室へと足を運んだ。
 外から声をかけ入室の許可が下りると、アレクが扉を開け、アンリエッタを先に入れる。
 部屋の中にはアンリエッタに似たふくよかな女性と、数人のメイドがいるのみであった。
 アンリエッタはその女性の前に膝をつき声をかける。

「母さま」
「アンリエッタ、愛しい娘や。綺麗なドレスね、似合っているわ」

 アンリエッタの母、太后マリアンヌは、目を細め娘を見つめる。
 母に褒められたアンリエッタは嬉しそうに顔をゆるめ礼を言った後、少し表情を暗くして、マリアンヌに尋ねた。

「母さまはやはりお出でになられないのですか?」

 マリアンヌは自身の夫である先王が崩御した後、臣下から玉座に着くよう上奏されたが、それを断り隠遁生活のようなものについている。
 政治には一切口を出さず、催し物にも特別な理由がない限り、今回のような舞踏会などには顔を出さない。
 なのでマリアンヌは現在もアンリエッタのように着飾らず、いつも通りの恰好で部屋にいた。
 マリアンヌはアンリエッタの問いに答えず、フッと笑みをこぼすと、娘に声をかける。

「さぁ、もう行きなさい。あまり人を待たすものではありませんよ」

 母にそう言われると、アンリエッタは渋々と立ち上がる。
 去り際に親子は互いの頬に軽くキスを落とす。
 アレクは扉を閉め、アンリエッタと共に舞踏会の会場へ向かった。

 マリアンヌの部屋を出て、大広間の前に着くと、その扉の前にはマザリーニが待っていた。
 彼はアンリエッタの手を引きエスコートすると、使用人が扉を開くのを待ち、そろって中へはいる。
 中には大勢の貴族が待ちかまえ、アンリエッタの姿を見ると、とたんに歓声が上がった。
 アンリエッタはその中を笑みを浮かべながら進み、上座へ着くと貴族達の顔を一通り見渡し、口を開く。

「皆さま、今日はご足労頂き感謝いたします。どうぞお楽しみ下さいませ」

 アンリエッタの挨拶が終わると同時に、今夜の舞踏会は幕が上がった。
 集まった貴族達は、思い思いに酒を飲み、食事を食べ、ダンスを踊る。
 社交場らしく、普段は目にかかることがあっても声をかけることができない夫人達に、貴族の男性はこの機会にお近づきになろうと、ダンスに誘う。

 既にアンリエッタの元にも数人の若い貴族の男性が群がり、その周りにもさらに多くの人がいる。
 アンリエッタと親密になるチャンスなど滅多にないため、この機会にお近づきになろうという者は多い。
 おそらくアンリエッタに直接声をかけている数人は、権力の強い名門貴族の面々で、その周りにいるのは、それよりすこし格の劣る貴族達だろう。
 格が低いといっても、このような場所にいるところから見ると、トリステインでは中堅以上の者に違いない。
 下級貴族といわれる者達は、この会場に入ることもできない。

 アレクは少し離れたところで、声をかけてくる貴族に対応しているアンリエッタを見ている。
 彼女は少し困った顔をしているが、これも王女の仕事だと諦めて貰おう、と考えつつ、適当に摘むものや飲み物でも持ってこようかと、足を動かした。
 と、そこへ丁度、給仕の一人が飲み物を盆にのせ、こちらへ寄ってくるのが見えた。
 金髪でアレクよりも年上の、見かけたことのない男。
 アレクはその人物へ歩み寄り、声をかける。

「君、一つくれないか?」

 給仕はアレクの呼びかけに反応し、何故か少し逡巡するようにしてから、盆の上に乗っている一つを差しだそうとした。
 アレクはそんな様子に訝しげにしつつも、受け取ろうとするが、それがアルコールだと気づき、手を振って押さえる。
 そしてノンアルコールのものを選ぶと、それを自ら取った。

「これでいい」

 アレクは振り返り、元の場所へ戻る。
 給仕はアレクの後ろ姿へ少し手をのばすが、結局何も言わずに奥へと引き返していく。
 早速それをアンリエッタへ持っていこうとするが、取った瞬間、心なしか給仕の顔色が変わったことが気になり、アレクは動きを止めた。
 アレクは杖を取り出し、手に持っているグラスへと向かって、“ディテクト・マジック”を唱える。
 すると、グラスが淡く光った。
 何かしらの魔法がかけられている反応。
 さらに詳しく調べてみると、とうやら即効性はないが、何らかの毒薬が仕込まれていることが分かった。

 アレクは急いで振り返り、給仕の姿を捜す。
 しかし、既にそこには誰もいない。
 辺りを見回しても、先ほどの給仕は見あたらない。
 逃げられたか、と舌打ちすると、アレクは厨房へ向かった。

 中には大勢の使用人達が、慌ただしく働いている。
 全体を見渡すが、パッと見た限り、そこにあの男がいる様子はない。
 いきなり現れ、観察するように中を見渡すアレクを、使用人達は訝しげな顔で見る。
 アレクはその内の一人を掴まえて、聞いてみた。

「さっきここに金髪の男が入ってこなかったか?」
「金髪の男でございますか? いえ、私は見かけませんでしたが……。しかし、何分出入りが激しいものですから、申し訳ありませんが確証はございません」

 急に声をかけられた使用人は、少し驚きながらもそう答えた。
 アレクはそれもそうか、と思いながら、厨房を出ようとする。
 そこへ、横から一人のメイドが怖ず怖ずと声をかけてきた。

「あの、それは30程の男性でしょうか?」
「ああ、見たのか?」
「はい、先ほど裏口の方へ歩いていくのを見ました。何の用でそちらへ行ったのかは分かりませんが、何やら辺りを見回しながらこそこそと出ていくのを不思議に思いまして声をかけたのですが、それを無視して外へ向かっていきました」

 そのメイドへ、ありがとう、と声をかける。
 アレクは近くにいた衛士の一人に、先ほど給仕の一人が持っていた飲み物に、魔法薬の毒薬が仕掛けられていたことを話す。
 その衛士にアレクが見た給仕の特徴を教え、念のためコッソリと会場の飲み物を検査するよう頼む。
 衛士は驚きの顔で頷き、上司の下へ行って耳打ちをすると、隊長らしき人物が伝令を命じ、大広間にいた衛士の約半数ほどが散らばり、飲み物の検査と給仕を捜しに出る。

 すぐにアンリエッタやマザリーニの耳にも入るだろう。
 本来ならすぐにアンリエッタの元へ戻るべきなのだろうが、直接その男を見たのは自分だけなので、少し捜してみることにした。
 会場に待機している衛士に、アンリエッタやマザリーニの周りを重点的に守るよう頼み、大広間を離れる。

 大広間から離れ裏口へ向かうと、辺りにはあまり人気がない。
 客の貴族が連れてきた護衛などは、基本的には宮殿の正門方向へ集まっていて、宮廷勤めの衛士達は、大広間を中心に警備をしているため、裏口の周りにはチラホラと腰に剣を下げた平民の衛士がいるだけである。
 もう少しすれば伝令を聞いた衛士達が探しに来るだろうが、それまでの間は見回ることにする。
 アレクは辺りを少し歩き回ってみたが、男の姿は見あたらなかった。
 どうもこのまま一人で見回ってみても見つかりそうもないため、後は衛士達に任せようとしたとき、後ろから声をかけられた。

「アレクサンドル様、いかがなさいました?」
「ああ、アニエスか。そっちは確か、ミシェルだったな」

 アレクに声をかけてきたのは、見知った人物。
 金髪を短く切った女性の衛士、アニエスと、彼女と同室のミシェルだった。
 ミシェルはアニエス同様、女性にしては背が高く、むしろアニエスより少し高いほどで、紫がかった濃い青色のシュートカットだ。
 二人は共に平民なため、比較的重要度の低い、こちらの警備に回されているのだろう。
 彼女らは何故ここにアンリエッタの従者であるはずのアレクがいるのか分からず、不思議そうな顔をして近寄ってくる。

「二人とも、こっちに金髪で30程の給仕姿の男が来なかったか?」

 アレクがそう聞くと、二人はそろって首を振る。
 ついで、どうしたのか尋ねてくる彼女らに、アレクは大広間で起こったことを話す。
 顛末を聞き、二人は驚き捜す手伝いを申し出た。
 それを受け、アレクは彼女らと共に探しに向かう。





 しばらく三人は辺りを見回ってみたが、男の姿は発見できなかった。
 そろそろ戻るか、とアレクが考え始めたとき、アニエスがポツリと呟く。

「しかし何故でしょうね……」
「ん? 何が?」
「いえ、男の目的が誰かは分かりませんが、毒薬を用意したところからみると、暗殺を狙ったのでしょう。しかしそれなら何故魔法薬という“ディテクト・マジック”を使えば、すぐばれてしまうものを用意したのか不思議に思いまして」
「それもそうですね。魔法薬は様々な効能を発揮しますが、ただ暗殺を狙ったものならば、むしろ普通の毒薬の方がばれにくいです」

 アニエスの言葉を聞き、ミシェルも首を傾げた。
 二人の言葉にも一理ある、とアレクは思い、考えつつも口を開く。

「そうだな……実は毒薬じゃなかったのか? いや、あれは確かに毒薬だった。だとすれば、ただ何も考えずに効果が高いものを選んだのか……」

 と、そこまで言ったところでアレクは嫌な予感がした。
 現在、衛士の目は、逃げた男に向いている。
 会場では、飲み物が“ディテクト・マジック”で調べられているだろう。
 だとすれば、“ディテクト・マジック”に反応しない毒物が仕掛けられていたのなら―――
 アレクは振り向き、大広間へ向かって駆けだした。

「アレクサンドル様! どうされたのですか!?」

 急に中へ向かって走り出したアレクを、二人は追いつつ声をかける。

「すぐに会場へ戻る! おそらく中に共犯者がいるはずだ!」

 アレクの言葉に驚きつつ、二人は彼と共に、会場へ向かった。





 客達には知らされていないのか、会場では始まったときと同じように、貴族達が思い思いに舞踏会を楽しんでいる。
 その中を一人のメイドが、飲み物を乗せた盆を持ち、貴族達の間をすり抜けるように歩いていた。
 先ほど厨房で、アレクに声をかけたメイドである。
 彼女が衛士の近くを通り過ぎようとすると、飛び止められた。

「おい、待て」
「はい、何でございましょうか?」

 メイドは足を止め、衛士を見る。
 衛士はメイドの前に立ち、彼女が持っている飲み物を見つめた。

「少し調べさせてもらう」

 そう言うと、衛士は杖を抜き、飲み物に向かって“ディテクト・マジック”を唱える。
 魔法をかけられた飲み物からは反応はない。
 衛士はそれを確認すると頷き、行け、と顎を動かした。
 一連の動きを不思議そうな顔で見ていたメイドは、礼をして立ち去る。

 メイドはさらに人混みの中を進む。
 彼女の向かう先には、アンリエッタとマザリーニの姿。
 大勢の貴族に話しかけられているアンリエッタを、詰まらなさそうに見ているマザリーニの背後に近づき、声をかける。

「お飲物をどうぞ」

 マザリーニその声に振り向き、メイドが差し出したグラスを手に取った。
 メイドはスッと礼をする。
 マザリーニからは見えないが、下を向いた彼女の顔には、暗い笑みが張り付いていた。
 受け取ったグラスをマザリーニが口に運ぼうとする―――と、大広間の扉が大きな音を立て開く。

 そこには息を切らせたアレクがいた。
 彼は一通り会場を見渡すと、ざわついている人々をかき分け、アンリエッタとマザリーニへ急ぎ足で近づく。
 マザリーニの目の前に立つと、彼が持っているグラスを見て、まだ口を付けていないのを確認し、ホッと息を吐いた。

「アレクサンドル、どうしたのだ?」
「失礼いたします、猊下」

 不思議そうに言うマザリーニの問いに答えず、アレクは彼の手からグラスを取る。
 そして中の液体を、なめる程度に口に含んだ。
 すると、アレクの舌に、わずかにピリリとくる感触があった。
 やはり、とアレクは頷いた。

「おい、貴様。猊下に無礼な真似を……」

 衛士の一人が彼の無礼を咎めようと、肩に手を置くが、次に発せられたアレクの言葉に動きが止まる。

「毒です」

 まさか、という表情を顔に張り付けた衛士に、アレクはグラスを渡す。
 衛士はそれを受け取り、軽くなめると、ウッと呻いた。
 アレクはマザリーニへ顔を向け、問いかける。

「猊下にこのグラスを渡したのは……」

 そこまで言うと、アレクの視界の端に、彼が先ほどは行って来た大広間の出口へ急ぎ足で向かうメイドの姿を捕らえた。
 アレクは彼女が、先ほど厨房で自分に声をかけたメイドだと気付く。
 彼は振り向き、大広間の扉へ向かって大声で叫ぶ。

「アニエス! ミシェル! その女を捕まえろ!!」

 すると、扉の外からアニエスとミシェルが飛び込んでくる。
 こんな事態を想定して、事前に二人には少し遅れて入ってくるように言っておいたのだ。
 メイドは正面からの襲撃を想像してなかったのか、あっさりと二人に取り押さえられる。
 突然の捕り物劇に辺りのざわめきは大きくなった。

「とりあえず一安心、かね」

 アレクがフーッと息を吐き、力を抜く。
 彼の目線の先では、衛士に引き立てられるメイドの姿があった。

















 あのような騒ぎが起こった後、そのまま舞踏会を続けることができようもなく、結局すぐにお開きとなった。
 初めにアレクが見つけた給仕は、程なくして町の酒場に隠れていたのを見つけられ、御用となったらしい。
 後日聞くところによると、あのメイドは取り調べを始める前に自害してしまったとのことだ。
 給仕はそのメイドに金を握らされ、飲み物に渡された薬を仕込んだだけらしく、誰の依頼かは分からなかった。
 マザリーニを狙ったことは確かだろうが、彼を快く思っていない貴族は大勢いるため、主犯が捕まることはなさそうだ。

 大広間の片づけを終え、アレクは外の空気でも吸おうかと、あまり人気のない所へ来ていた。
 すこしフラフラと歩いていると、前にアニエスとミシェルが立っているのを見つける。
 アレクは二人に近づき、声をかけた。

「二人とも、ご苦労様」
「アレクサンドル様もお疲れさまです」

 二人はアレクに気づくと、そろって礼をする。

「二人には今回の働きで、特別に報奨金がでると思うから、楽しみにしててくれ」
「本当ですか!?」
「ありがとうございます!」

 アレクの言葉に、アニエスは驚き、ミシェルは素直に喜ぶ。
 俺からじゃないが、とアレクは言いつつ、それを肯定する。
 すると、アレクは二人がカップを持っていることに気づき、自分も少しのどが乾いていることを自覚した。
 二人には分からないだろうな、と思いつつも、元の世界で聞いた落語を思い出し、今回の事件にかけて冗談を言う。

「ああ、お茶が怖いな」

 アニエスはアレクの言葉に自分の手にあるカップを見て、「そうですね」と苦笑いした。
 やっぱ分からないか、とアレクは少し微笑むと、横から二人が持っているものと同じものが差し出される。
 不思議に思いアレクが振り向くと、そこにはにこやかにカップを差し出すミシェルがいた。

「どうぞ」
「あ、ああ。ありがとう」

 アレクは戸惑いつつ受け取った。
 アニエスはそんな彼女の行動に、呆れ気味に声をかける。

「お前、何でいきなりカップを差し出すんだ? アレクサンドル様も困っていらっしゃるだろう」
「え? でも今、お茶が欲しいとアレクサンドル様が……」
「アレクサンドル様はお茶が『怖い』といったんだ。お茶が『欲しい』などとは仰っていない」

 ミシェルはアニエスの言葉に、あ、と驚く。
 アニエスは彼女の反応にため息を吐き、アレクに頭を下げる。

「申し訳ありません、こいつはたまにおかしな行動をとる奴でして」
「いいよ、丁度のどが渇いてたし」

 申し訳なさそうにしているミシェルを見て、気にしていないとアレクが言うと、アニエスは「ありがとうございます」と、もう一度頭を下げる。
 アレクは確かに無礼には思わなかったが、ミシェルの行動自体は気にしていた。
 もしかして彼女は自分の言葉の意味が分かったのではないか、と。
 アレクは視線を空にやる。
 そこには大小の満月が二つ重なっていた。

 ハルケギニアには、月が二つある。
 一つは元の世界の二倍はある青い大きな月で、もう一つは元の世界と同程度の大きさの赤い月。
 それらの月は、一月に一度重なり、その夜を『“スヴェル”の月夜』と呼ぶ。

 今夜はその月が重なる夜だ。
 アレクはそれを見て、ちょっと引っかけるようなことを呟く。

「今夜は良い夜だな、月がまん丸で」
「そうですね」

 二人がつられるように空を見上げ、ミシェルが同意するように言う。

「こんな月を見たら、団子が食べたくなるな」
「はは、お月見です…か……?」

 初めは笑いながら軽く言うミシェルだが、途中でアレクが言った言葉の意味を理解したのか、途切れ途切れになる。
 そして、ギギギ、と音が出るようにゆっくりとアレクに顔を向ける。
 彼女の表情から、まさか、と思っていることが手に取るように分かった。
 アレクはそんな顔を見て、「やっぱりそうか」と内心頷き、続ける。

「今日は十五夜じゃないけど、日本人としては、な」

 軽く微笑みながら言うアレクに、ミシェルは信じられない、といった面持ちで詰め寄ろうとする。

「まさか、あなたも……!?」
「ストップ」

 アレクの方を掴み叫ぶミシェルを、彼は押しとどめた。
 何故、といった顔をする彼女の耳に顔を寄せ、小声で呟く。

「今はアニエスもいる。彼女は違うんだろう? 詳しいことは、また今度にしよう」
「あ……ええ、そうですね……」

 チラリとアニエスを見ながら言うアレクに、ミシェルも彼女を見ながら同意する。
 二人は顔を見合わせ、頷く。
 そんな二人の様子を訝しく思ったのか、アニエスは少しムッとして問いかけた。

「何ですか、二人して?」
「何でもないよ」
「何でもないわよ」

 アニエスの問いに、二人はほぼ同時にそう答えた。
 そんな二人に、アニエスはさらに問いつめようとするが、彼女が声を出す前に、アレクが口を開く。

「アニエス。それよりも報奨金が入ったら、また飲みに行かないか? 今度はお前のおごりで」

 からかうように言ったアレクの言葉に、アニエスはカッと赤くなる。

「も、もうあなたとは行きません!」

 そう言うと、彼女は顔を赤くしたまま、早足に離れていく。
 アレクとミシェルはそんなアニエスに苦笑いする。

「では、また後日」
「ああ」

 詳しく話をするために、一度アレクに顔を向け、約束を取り付け、ミシェルはアニエスを追っていった。
 アレクは二人を見送った後、帰るか、と呟き逆方向へと歩き出す。





 アレクは少し散歩して帰ろうと思い、一人フラフラと歩き回る。
 せっかくの『スヴェル』の月夜なので、普段しない夜の散歩も良いかと思ったのだ。
 あんな騒ぎがあった後なので、そこいら中にいる衛士に何度か呼び止められた。
 丁度中庭についた頃、花壇の近くにドレスを着た一人の少女が佇んでいるのが見える。
 アレクはその少女に駆け寄り、声をかけた。

「アンリエッタ様。この様なところで護衛もつけずに何を?」

 それは王女であるアンリエッタであった。
 彼女は自分に声をかけたのがアレクだと分かると、嬉しそう笑みを浮かべる。

「あら、アレク。やっと見つけましたわ」
「私を捜していらっしゃったのですか?」
「ええ」

 アレクはドレス姿のままのアンリエッタを見る。

「それなら誰かに命じればよろしかったでしょう。ドレスもお着替えにならずに」
「まだ舞踏会は終わっていませんもの」

 そう言うアンリエッタに、アレクは首を傾げる。

「残念ながら既に舞踏会は終わりましたが? 大広間の片付けもしてしまいました」
「いいえ、まだですわ」
「どういうことですか?」
「だって、まだアレクと踊っていませんもの」

 頬を染めて言うアンリエッタに、しばし呆然とするアレク。
 少しそのままの後、アレクは笑い、アンリエッタに手を出す。

「私と踊っていただけますか、レディ?」
「ええ、喜んで」

 アンリエッタはアレクが差し出した手に、自分の手を添える。





 曲もなく、他の客もいない、静かな夜の中庭。

 空に浮かぶ重なった月の光を浴び、二人は気の済むまで踊り続けた。




















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