トリステインとガリアに挟まれた内陸部には、ハルケギニア随一の名勝であるラグドリアン湖が存在している。
 そこは人より遥かに長い歴史を持つ、水の精霊が住まう楽園。
 水の精霊はこの湖の底に独自の文化と王国を築いている。
 しかし精霊は滅多に人前に姿を見せない。
 水の精霊とトリスティン王国は古い盟約で結ばれているため、現在では数十年に一度その更新の際に湖底から出るのみである。

 今そんなラグドリアン湖の畔では、トリスティン王国が太后マリアンヌの誕生日を祝う、大規模な園遊会を開催している。
 ハルケギニア中から多くの客を招き、社交と贅の限りを尽くした。
 ガリア王国からは一年ほど前に即位したばかりのジョゼフ王、帝政ゲルマニアからは皇帝アルブレヒト三世、そしてアルビオン王国からは後になり到着する予定の国王ジェームズ一世と皇太子ウェールズなど、王族とその一族自らも足を運び、こぞって着飾り夜通し開かれた舞踏会などを楽しんだ。

 二週間にも及ぶ大園遊会も半ばが過ぎた頃の夜、アレクは主であるアンリエッタの姿を探し歩き回っていた。
 おそらく各国から集まった貴族達による、かわるがわる行われた挨拶やおべっかに嫌気がさし、どこかへ気晴らしに抜け出てしまったのだろう。
 アレクは「あれほど一人でうろつくなと注意したのに……」と文句を言いながら、アンリエッタを探し彼女にあてがわれた部屋へ向かっている最中であった。
 アンリエッタの部屋の前に着くと、アレクは扉を叩き中へ声をかけた。

「アンリエッタ様、いらっしゃいますか? 私です」

 しかし中から応答はない。
 アレクはここではなかったのだろうか、と考えつつノブに手をかける。
 するとどうやら鍵はかかっていないらしく、何の抵抗もなく扉が開いた。

 王女にあてがわれた部屋らしく、中は広い。
 奥には大きいベッドが一つ存在している。
 その上はこんもりとふくらんでいて、人が寝ているようだった。
 もう寝てしまったのだろうかと思いつつ、アレクはベッドへ近寄り声をかけた。

「アンリエッタ様? お休みになられたのですか?」

 その言葉にも反応はない。
 やはり寝てしまったか、と考え出ていこうとすると、アレクの目にシーツからはみ出た髪が見えた。
 その髪の色はアンリエッタと同色の栗色だが、長さが彼女よりも長い気がする。
 そのことに疑問を覚え、アレクは出ていこうとした足を止めると、もう一度ベッドへ近づき先ほどより大きめに声をかけた。

「アンリエッタ様?」

 先ほどと同様に反応はない。
 やはり寝ているだけだろうか、と思いつつもベッドのふくらみに手を触れる―――と、そのふくらみがピクリと動いた。
 その反応に起きているのかと思い、声をかけつつシーツをめくろうとするが、中から抵抗をしているらしく、めくらせようとしない。
 何かおかしい。
 アレクはそう考え彼女を起こそうとするが、必死に抵抗しているらしくなかなか動かせない。
 仕方ない、と考え一度力を抜く。
 彼女もそれに安心したらしく、フッと力を緩めた。

「ていっ!」
「きゃっ!」

 その隙に一気にシーツをめくり上げる。
 シーツの中の人物が驚き声をあげた。
 その声は確かに若い女性のものであるが、聞き慣れたアンリエッタの声とは若干違う。
 しかしてめくり上げたシーツから覗いた顔は、そこにいるはずのアンリエッタではなく、彼女の学友兼遊び相手であるルイズであった。

「ルイズ様? 何をしてらっしゃるのですか?」
「あ、あははは……」

 呆れたように言うアレクに、ルイズは誤魔化しように笑った。
 おそらく髪は魔法薬か何かで染めたのだろう。
 わざわざそんな真似をしてまで抜けだしたのかと、アレクは頭が痛くなる思いであった。

「まさかアンリエッタ様に頼まれて?」
「ち、違うわよアレク! 姫様が抜けだすために身代わりを頼まれたとかじゃないんだからね!?」

 聞いてもいないことを喋り墓穴を掘るルイズ。
 いった後にハッと口を押さえるがもう遅い。
 アレクは彼女の言葉に頭を押さえポツリと呟いた。

「あのアマ……」
「アレク? 今なんかすごいこと言わなかった?」

 他の人に聞かれたら、即不敬罪でとっつかまるようなことを言うアレクに、ルイズは冷や汗を流す。
 アレクは気を取り直し、ルイズにずいっと顔を寄せ問いつめた。

「アンリエッタ様はどちらへ?」
「だ、だめよ。姫様に内緒だって言われたもの……」
「どちらへ?」
「だから、だめだって……」
「どちらへ?」
「だめって……」
「どちらへ?」
「……ラグドリアン湖へ行くって言ってた……」

 初めは抵抗したものの、引く様子のないアレクに気圧され白状するルイズ。
 アレクはそれに頷き、身を翻すと外へ向かう。
 扉を閉める際にルイズに「おやすみなさいませ」と声をかけると、ダッシュでラグドリアン湖へ走っていった。
 ルイズは心の中でアンリエッタに謝りつつも、それを見送るしかなかった。





 園遊会の会場から離れ少しするとラグドリアン湖へ着いた。
 ハルケギニア随一の名勝と言われるだけあり、その光景は自然のものと思えないほど芸術的で美しい。
 時間があるならばいつまでも眺めていたいが、今はアンリエッタを探さなければいけない。
 アレクはその光景をじっくり見ていられないのを惜しみつつ、湖沿いにアンリエッタの姿を探し歩く。

 しばらく歩くと湖の中に人影が見えた。
 遠くて顔は分からないが、おそらく若い女性。
 こんな所で一人水浴びする女性がそうそういるとは思えないので、おそらくあれはアンリエッタだろう。
 会場からそう離れていない場所でなんて無防備な……。
 アレクは痛む頭を押さえながらそちらへ近づいていく。

 と、湖の岸辺にアンリエッタを眺めている人影が見えた。
 こちらも顔はよく見えないが、おそらくアレクと同年代ほどの若い男性。
 アレクは初め自分と同じくアンリエッタを探しに来た侍従の一人かと思ったが、それならぼうっと見ずに彼女の姿を見付けた瞬間声をかけるだろう。
 そもそもアンリエッタの従者にアレクと同じほどの年の者はいない。
 ならば招待客の一人が偶々来て覗きの真似事でもしているのか、もしくは彼女の命を狙った刺客か……。
 アレクは気配を消し、そっとその人物の後ろへ回り込む。
 気付かれないよう接近し、背後から羽交い締めにして、その背中に杖を突きつける。

「動くな」

 その声に男はハッと身を強張らせ、後ろに振り向こうとしたが、アレクが杖をさらに強く押しつけると動きを止めた。
 もし招待客の一人だったならば無礼な行為だが、覗きのような真似をしていた彼が悪いので、諦めて貰おう。
 すると二人の存在に気付いたらしいアンリエッタが、体を湖の中に沈め緊張に強張らせつつこちらへ声をかけてきた。

「誰です!?」
「アンリエッタ様。私です、アレクです」
「アレク?」

 アレクは男を押さえたままアンリエッタに返す。
 その声に安心し、アンリエッタは緊張気味な体の力を抜き、こちらをじっと見た。
 そしてもう一人いるのに気付くと、不思議そうにアレクに声をかける。

「そちらは?」

 アンリエッタはアレクに押さえられている見覚えのない男を不審がる。
 それに羽交い締めにされたままの男は、背後のアレクに注意を向けつつ口を開いた。

「アンリエッタ? 君はアンリエッタなのかい?」

 男がアンリエッタを呼び捨てにしたことに、彼女は驚く。
 今ラグドリアン湖の畔に集まっている中で、アンリエッタのことを呼び捨てにできる者など5人とおらず、その中に彼のような若い男性はいなかったはずだ。
 アレクは記憶の中にアンリエッタを呼び捨てにできる若い男性を思い浮かべ、内心「やべぇ、しくった。そういや今日の夜着くって話だったな」と冷や汗を浮かべる。
 それでも正体がハッキリするまで離すわけにはいかないので、怖々としながら彼の言葉を待つ。

「僕だ、ウェールズだよ! 君の従兄弟さ!」
「ウェールズ様!?」

 アンリエッタは驚き、思わず自分が裸であることを忘れ立ち上がる。
 アルビオンの皇太子、プリンス・オブ・ウェールズ。
 今は亡きトリスティン王の兄君、アルビオン王ジェームズ一世の長男である。
 近くで見てみると、なるほど、話しに聞いていたように金髪の美男子だ。
 アレクは予想が当たってたことに、頭の中だけで自分の行いを後悔しつつ、そっとウェールズの体を解放しアンリエッタに声をかける。

「アンリエッタ様、まずはお召し物を」
「え? あ……きゃあ!」

 アレクの言葉にようやく自分が裸だということを思いだし、両手で体を隠して悲鳴を上げるアンリエッタ。
 ウェールズも彼女の裸を眺めていたことに気づき、恥ずかしそうに目線をそらす。

「ウェールズ殿下、申し訳ありませんがこちらへ」
「あ、ああ、そうだね」

 ウェールズを促し、彼と共に近くの木陰へ行き、後ろを向くアレク。
 そこでアンリエッタを待つ間、ウェールズはアレクに声をかけた。

「君は?」
「申し遅れました。私はアンリエッタ様の従者、アレクサンドル・シュヴァリエ・ド・サン・ジョルジュと申します。」

 ウェールズの前に跪き、自己紹介をするアレク。
 シュヴァリエを叙され貴族に返り咲いた彼は、本来ならば『サン・テグジュペリ』を名乗りたいが、残念ながらサン・テグジュペリ家は罪を問われ貴族位を剥奪されているので、堂々と名乗るわけには行かない。
 そのため現在はシュヴァリエと共に賜った『サン・ジョルジュ』を名乗っている。
 ウェールズはアレクの名乗りを聞き、感心したように息をもらした。

「その年でシュヴァリエを賜っているのか。私とそう変わらないだろうというのに、素晴らしいものだな」
「過分なお言葉恐れ入ります」

 ウェールズの褒め言葉にアレクは畏まって答え、ついで、先ほどの件を謝罪する。

「先ほどはウェールズ殿下とは露知らず、大変失礼な真似をいたしました。謝罪のしようもございません。どの様な罪に問われようとも受け入れる覚悟にございます」

 たとえアンリエッタの為とはいえ、王族に杖を向けたのだ。
 知らなかったで済ませられるものではない。
 本来ならばこの場で首を刎ねられても文句は言えない。
 しかしウェールズはアレクの言葉を聞き、ようやくそのことを思い出したのか、特に気にした様子もなく笑う。

「はは、気にすることはないよ。アンリエッタを守るためだったんだろう? 確かに僕も怪しかったしね」
「しかし……」
「構わないって。もしここで君を打ち首にでもしたら、彼女に一生恨まれかねない」

 肩を竦めながらそう言うウェールズに、アレクは胸を撫で下ろす。
 しかし流石にウェールズの言葉は言いすぎだと思ったのか、アレクは苦笑いをする。

「さすがに一生はないと思いますが。せいぜいお気に入りの玩具を親に取り上げられた子供のように、へそを曲げる程度でしょう」
「そうかな? 彼女は随分君を信頼しているように見えたけど」

 ウェールズは少し面白くなさそうに言う。
 確かにアンリエッタはあれほど無防備な姿だというのに、そこにいる人物がアレクだと分かると、すぐに警戒心をなくした。
 いかに近しい人物であろうと、親兄弟でもない者が裸の自分の近くにいれば、多少なりとも警戒するものだ。
 ましてやその相手が異性ならば尚更である。
 ウェールズにはアンリエッタのアレクに対する信頼は、ただの従者の一人に向けるものではないと感じられた。

「こちらを向いてもかまいませんわ」

 どうやら話をしている間に服を着終えたらしく、アンリエッタが二人へ声をかけた。
 振り向く二人の前には、まだ恥ずかしさが抜けきっていないのか、ほんのりと頬を赤く染めたアンリエッタの姿がある。
 彼女はウェールズに顔を向けると、申し訳なさそうに表情を曇らせる。

「ウェールズ様、先ほどはアレクサンドルが大変失礼なことを……」
「ああ、構わないよ。彼にも言ったが、君の従者としてなら仕方がないし、僕も失礼だったからね」
「寛大な処置に感謝いたしますわ」

 微笑み礼を言うアンリエッタ。

「ウェールズ様はどうしてここへ?」
「先ほど父上と到着してね。音に聞こえたラグドリアン湖を一目見ようと散歩をしていたら、人影が見えたものだから見入ってしまったよ」
「私ったらはしたない姿を……」

 赤くなり頬を押さえるアンリエッタ。

「水の精霊が湖面に姿を現したかと思ったよ」
「私で残念でしたわね」
「そんなことないよ。君は水の精霊より……」
「あら? そういえばアレクは何故ここへ?」

 何やら口説き文句を言おうとしたウェールズの言葉をスルーし、アンリエッタはアレクに顔を向けると、不思議そうに首を傾げた。
 思わずつんのめるウェールズ。
 アレクは内心「天然か? 計算か?」と考えつつも表には現さず、呆れたような仕草をしてアンリエッタへ返答する。

「何故も何も……一人で歩き回らないようにと、何度もご忠告差し上げたでしょう?」
「気分転換しようと思っただけなのよ……」
「それなら私に一声お掛けください。もしお一人で出歩かれたときに、怪我でもしたら、大変なことになるかもしれないのですよ?」

 少しすねたように言うアンリエッタに、アレクは小言を言う。
 アンリエッタはそれにシュンとなる。
 そんなやり取りをしていると、横合いから笑い声が聞こえた。

「ウェールズ様?」

 身を丸め肩をふるわせているウェールズの姿に、アンリエッタは目をパチクリさせた。
 そんな彼女にウェールズは笑いながら声をかける。

「あっはっは! いや……そのね、君の様子が親に叱られている子供のようで……」

 そう言いまた体を震わせるウェールズ。
 彼の言葉にアンリエッタは頬を膨らませる。

「どうせ私は子供ですわ」
「いやいや、馬鹿にしているわけではないのだがね。どうも、その……あっはっはっは!」

 プイッと横を向くアンリエッタにまた笑いがこみ上げるウェールズ。
 それが益々彼女をすねさせる。
 アレクは何かしらフォローをしなければならないとは思うのだが、どうも微笑ましさが先に来てしまい、じっと傍観している。
 気分は仲のいい兄弟を見つめるお父さんなアレクであった。

 この夜以降もウェールズは、園遊会が行われている間は、何度もアンリエッタを誘って抜けだした。
 何故かその度にアレクもアンリエッタに連れられたが。
 王族二人だけで人目がない場所をうろつくのはさすがに拙いので、アンリエッタが自分を連れて行くのはアレクとしてはありがたいのだが、彼が見た限りではウェールズは若干不満そうにも見えた。
 アンリエッタはその度にルイズにお願いして、変わり身となってもらう。
 アンリエッタがただ気晴らしに出ていると思っているルイズは、アレクも行くなら自分もいいではないか、と不満を漏らしたが、アンリエッタがどうしてもと言うと頼みを受けてくれた。

「ひ、姫様の頼みじゃしょうがないわね! 私に任せなさい!」

 ルイズは顔を少し赤くしてそう言う。
 仲間はずれにされたようで若干寂しいが、人に頼られるというのは嬉しかったのか、ルイズは誇らしげに胸を張った。





 マリアンヌ太后の誕生日を祝う園遊会も終わり、各国から招かれた客達は帰っていく。
 アレクはアンリエッタの側にひかえ、それらを見送る。
 ウェールズは最後まで別れを惜しみ、去り際にアレクにまでも声をかけてくれた。

「行ってしまいましたわね……」
「ええ」

 全ての客を見送った後、アンリエッタはポツリと呟く。

「今回の園遊会はとても有意義でしたわ。アルビオンに太いパイプができましたもの」

 先ほどの、遊びの時間が終わりもう帰らなければならない子供のような表情とは打って変わり、アンリエッタはどこか冷たい笑みを浮かべる。
 アレクは彼女の変わり様に、つい苦笑いを漏らす。

「怖いですね。そんな目的でウェールズ殿下と一緒におられたのですか?」
「あら、そんなことはありませんわ。ウェールズ様との時間はとても楽しかったもの。ですが為政者となるなるならば、常に冷めた自分を持っていろと仰ったのは、あなたやマザリーニ枢機卿でしょう?」

 それはそうなのだが、ここまで様変わりするとは驚きであった。
 アレクはそんなアンリエッタを頼もしく思いながらも、あの天真爛漫な彼女はもういないのか、と少し寂しくもある。

「私が君主としてトリステインに君臨する可能性も十分にあるのですから、そのためには色々と力をつけなくてなりませんわ」

 それに、とアンリエッタは思う。
 彼女はアレクが陰口を叩かれているのを知っている。
 彼女はアレクが今の立場につくまでの苦労を聞いている。
 彼女はアレクがいつか自分のために怪我を負ったのを忘れていない。

 彼女にとってアレクは、物心がついたときには既に側にいた、いわば家族のようなものである。
 そんな彼が苦しむ様は見たくない。
 自分の大切な人は守りたい。
 そのためなら利用できるものは全て利用する。
 アンリエッタはそう考え、感情が窺えない笑みをうっすらと浮かべるのであった。




















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