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 朝、まだ外が薄暗い時刻。 
 シュヴァリエに叙されてから与えられた部屋で、アレクは目を覚ました。 
 ところどころに汚れはあれど、比較的小奇麗な見慣れた天井を眺めながら、ゆっくりと頭を覚醒させていく。 
 20分ほどそのままでいると、アレクは布団の温さに後ろ髪を引かれながら、何とかその誘惑を断ち切り起きあがった。 
 
 毛布をまくり、ベッドに座り込む。 
 簡素な寝間着のまま立ち上がり、ふらふらと洗面器の前まで移動する。 
 アレクはそこで短くルーンを唱え杖を振ると、空気中から取り出した水で洗面器を満たす。 
 簡単に温水にできる方法はないかと考えながら、顔を洗い、歯を磨き、寝癖を直していく。 
 
 いつもの服に身を包み、一通りの身支度を整えると、杖を腰に差す。 
 ドアの前に立ち、部屋を見渡し、何かしら異常がないかを確認する。 
 さして物数が多いわけではないため特にあらためる必要はないが、習慣のようなものだ。 
 いつも通りの光景であることを確認すると、一つ頷き部屋を出る。 
 
 自室を出たアレクは、まず中庭へ足を進めた。 
 そこで朝の空気を吸うことが、宮殿に勤めることになってからの日課だ。 
 中庭に出ると、ちらほらと衛士の姿が見えた。 
 アレクは彼らの邪魔にならないよう、中庭の隅に移動して、大きくのびをする。 
 本格的に春になり、暖かくなってきたとはいえ、まだ早朝の気温は低めだ。 
 ヒンヤリとした空気に、わずかな肌寒さと心地よさを覚えた。 
 
 気の済むまで清浄な空気を堪能すると、次に足を向けたのは、アンリエッタ付きである使用人たちの控え室。 
 王族の従者の中ではそれほど地位の高くないアレクだが、アンリエッタ付きの使用人――平民限定だが――に対する裁量はある程度認められているので、彼らのスケジュールの確認と指示を行う。 
 今日が特別な日だというわけでもないので、簡単なものだけで済んだ。 
 それが終わると朝食。 
 
 まがりなりにも貴族であるアレクは他の使用人たちと同じ食卓につくことはできないため、少し隔離された場所でそれなりに豪華な食事をとる。 
 慣れたとはいえ、やはりちょっと寂しいアレクは、またアニエスかミシェルでも誘って飲みに行くか、と思いついた。 
 トマかリュシーでもいいな、と考えながら朝食を終えると、数人の侍女に声をかけ出ていく。 
 
 すでに日も姿を見せ、窓から差し込んだ太陽の光が、宮殿の廊下を照らしている。 
 あちらこちらでは、朝の支度を終えた使用人たちが最後の点検を行っているのが見え隠れした。 
 アレクに気づくと頭を下げてくる彼らに、こちらを気にしないよう手振りで示しつつ、アレクは目的地へと足を進める。 
 向かう先はアンリエッタの自室。 
 
「アンリエッタ様、お目覚めでございますか?」 
 
 アンリエッタの自室に着いたアレクは、ドアをたたき、中へ声をかけた。 
 しかし、返答はない。 
 二度三度と同じことを繰り返したが、反応がないのでやはりまだ眠っているのだろう。 
 これもいつもの通りだ。 
 アンリエッタは外から声をかけて起きた例がない。 
 
 ここで大声を張り上げ、ドアよ突き破れろといわんばかりに連打するわけにもいかず、アレクはため息をつく。 
 ノブをひねり鍵がかかっていることを確認すると、アレクは杖を取り出し“アンロック"を唱えた。 
 鍵が開く音を聞くと、杖を戻し「失礼いたします」と声をかけ、侍女たちを廊下に残し一人で中に入る。 
 
 部屋の奥には天蓋付きの大きなベッド。 
 ピクリともしない膨らんだ布団が、その主がまだ夢の世界の住人であることを示していた。 
 アレクは部屋を横切りベッドへ歩み寄る。 
 
 ベッドの傍らに立ち、のぞき込むと、そこにはアレクの主人であるアンリエッタが幸せそうに眠っていた。 
 先日、肩ほどの長さに切りそろえた栗色の髪が、柔らかそうな枕に広がっている。 
 あまりにもアンリエッタの寝顔が幸せそうなので、ついこのまま寝かせておきたい気持ちが湧き上がってきたが、そういうわけにもいかない。 
 アレクは一度頭を振ると、布団の上から彼女の肩に手を添える。 
 
「アンリエッタ様、アンリエッタ様」 
 
 名前を呼びながら揺する。 
 アンリエッタははじめ、いやいやするように身を捩っていたが、数度繰り返すと、顔を軽くしかめ、うっすらと目を開いた。 
 まだ寝ぼけているようで、ぼんやりとしたままアレクを見つめている。 
 
「アンリエッタ様、おはようございます」 
 
 視線をあわせ、アレクが笑顔を浮かべながら言うと、アンリエッタはニヘラと笑い、両手を伸ばす。 
 
「ん〜……」 
「アンリエッタ様?」 
 
 うなり声をあげながらただ手を伸ばすだけで、起きあがろうとする気配のないアンリエッタに、アレクは首を傾げる。 
 
「んっ!」 
 
 なおもアンリエッタはその体勢のまま、何かを求めるようにうなっている。 
 どうやら寝ぼけて幼児退行しているようだ、と思いついたアレクは、苦笑いすると、少し大きめの声で呼びかけた。 
 
「もう朝ですよ、アンリエッタ様。寝ぼけていないで、目を覚ましてください」 
 
 その声に反応したのか、アンリエッタは両腕を体の脇に落とし、心なしか一瞬不思議そうな顔をすると、徐々に瞼を押し広げていく。 
 やがて完全に開ききると、キョトンとした表情でアレクを見る。 
 
「おはようございます、アンリエッタ様」 
 
 あらためて笑顔を浮かべながら挨拶をするアレクを少しの間見つめると、アンリエッタは華が咲いたような笑顔で口を開いた。 
 
「おはよう、アレク」 
 
 アレクはそれに応えもう一度挨拶をすると、布団をめくりアンリエッタを起こそうとして―――ため息をはいた。 
 動きを止め、眉間をほぐしてからアンリエッタに視線を戻す。 
 先ほどと変わらない光景に、再度嘆息する。 
 視線の先、アレクが手をかしてくれないので自力で起きあがったアンリエッタが、肌着一枚だけしか着ていなかった。 
 いつもアレクが起こしに来ることが分かっているのだから、もう少し淑女らしい格好を出来なかったのか、と問いたい。 
 
「だって、楽なんですもの」 
 
 格好についてアレクが窘めると、アンリエッタはそう言って口をとがらせた。 
 アレクはアンリエッタにガウンを羽織らせると、部屋の外に待機している侍女を呼ぶ。 
 今度からは何か着るように、と注意をしておき、アレクはアンリエッタに朝の支度を促す。 
 
 
 
  
 アンリエッタの朝の支度を連れてきた侍女に任せ、アレクは部屋を出る。 
 そして向かったのは、マザリーニの執務室。 
 王族の居住区からは少し離れた一角にある部屋へ足早に向かい、たどり着く。 
 アレクはドアの前に立ち、軽くノックする。 
 
「入れ」 
 
 すると、間髪入れずに返事があった。 
 断りをいれアレクが入室すると、部屋の中にはすでに机につき書簡と向き合っているマザリーニの姿。 
 落ちくぼんだ目で書簡を睨み、鳥の骨のような指で羽ペンを忙しなく動かしている。 
 朝も早くから仕事に取りかかっているらしい。 
 頭が下がる思いである。 
 
「誰だ? 何の用だ?」 
 
 マザリーニは顔を上げる暇さえ惜しいとばかりに、声だけで用件を尋ねてきた。 
 
「アレクサンドルです。本日のアンリエッタ様のご予定について、猊下からは何かございますか?」 
 
 そこで、マザリーニはようやく顔を上げた。 
 
「ああ、そうか。ふむ……これをお渡ししておいてくれ」 
 
 机の上に置かれている書簡の束から一つを取り出し、アレクに渡すマザリーニ。 
 
「かしこまりました、。では、失礼いたします」 
「ああ」 
 
 アレクが書簡を受け取り、退室するために礼をし、頭を上げると、マザリーニはすでに書簡に目を落としていた。 
 邪魔をしないように、音をたてずに下がる。 
 ドアの前でもう一度頭を下げると、アレクは静かに出ていった。 
 
 
 
  
 今日のアンリエッタの予定を考えながら、彼女の部屋へと続く道を歩くアレク。 
 マザリーニから渡された書簡は、手元にある物一つだけ。 
 昼過ぎに財務卿であるデムリとの面会が入っているが、それ以外にはとくに何もなかったはずだ。 
 今日はゆっくりできそうだな、と喜んでいると、渡り廊下にさしかかったとき、アレクは外に見知った二人組が立っているのに気づいた。 
 アレクは足をとめ、二人の背に声をかける。 
 
「アニエス、ミシェル」 
 
 衛士姿の凛々しい女性二人組は振り返り、声の主がアレクだということに気がつくと歩み寄ってくる。 
 
「アレクサンドル様、何かご用でしょうか?」 
「いや、見つけたから声をかけただけ。朝から警備ご苦労さま」 
 
 揃って礼をした後、頭を上げてから尋ねたアニエスに、アレクは微笑みながら労いの言葉をかけた。 
 当然のことだ、と首を振るアニエスに苦笑いをすると、何か思い出したかのような表情をして、ミシェルに顔を向けるアレク。 
 
「ミシェル、また新しいものが手には入ったから、良ければ暇なときに来るか?」 
「本当ですか? ぜひ!」 
 
 アレクの言葉にミシェルは顔を輝かせる。 
 話が見えないアニエスは、何のことか尋ねようと口を開きかけたが、それより先にミシェルは興奮した様子で喋り出す。 
 
「今回はどんなものですかね!? 私では手に入れるのが難しいので、アレクサンドル様からお声がかかるのをいつも待っているんですよ。今から楽しみです!」 
 
 息も荒く詰め寄ってくるミシェルに、思わずアレクは身を引く。 
 端から見ているアニエスも、わずかに及び腰だ。 
 
 アレクとミシェルが何のことについて話しているかというと、東方からの流出品―――つまり日本風の品についてだ。 
 
 元の世界でのミシェルの家は、どうやら古い家系らしく、とくに祖父母の家は時代錯誤なほどに日本的であったらしい。 
 よく祖父母に預けられていたミシェルは、どうやらその影響で日本贔屓――元日本人である以上、変な言葉だが――になったということだ。 
 アレクの元の世界での祖父母の印象といえば、「戦時は兄弟全員戦闘機乗りで活躍したものだ」やら、「昔は大和撫子の鑑だった」などという自慢話をしてくるか、会う度にやたらお菓子をすすめてくることしかないので、影響を受けるということは想像しずらいが、育った環境が違ったのだろう。 
 
「ああ……あの黒光りしたツヤツヤのフォルム。手のひらにフィットする硬さが、もう……っ!」 
 
 ちなみに、アレクが持っている陶器のことである。 
 頬を染めて恍惚とした表情で言うのは自重してほしい。 
 
「じゃ、じゃあなアニエス。警備頑張ってくれ」 
「えっ? ああ、はい、ありがとうございま……じゃなくて! こ、こんなやつの傍で、一人にしないでください!」 
 
 クネクネしているミシェルを指し、必死に訴えるアニエス。 
 だが、アレクは非情だった。 
 
「アデュー!」 
「ア、アレクサンドル様ぁ!?」 
 
 今までにないほど心細そうな様子のアニエスをその場に残し、これまた今までにないほど焦った様子のアレクは足早にその場を離れた。 
 
 
 
  
 九死に一生を得た、といわんばかりに安堵の息をついたアレクは、アンリエッタの部屋へと歩を進める。 
 その道中、前方に侍女の人だかりができているのが見えた。 
 中心には一つ抜きんでた銀髪がある。 
 何事だろうか、と首を傾げるアレク。 
 
「アレクサンドル様、いかがなさいました?」 
 
 突如、後ろからかけられた声に、アレクはビクリとして振り向く。 
 
「ああ……リュシーか……」 
 
 アレクは自分の後ろにいた人物を見ると、ほっと息を吐く。 
 そこには、メイド服に身を包み、してやったりとした表情をしたリュシーが立っていた。 
 
「驚かさないでくれ」 
「申し訳ありません」 
 
 苦笑いして言うアレクに、リュシーは殊勝に頭を下げた。 
 まぁいいけど、とアレクは言い、続けてあの人だかりについて尋ねてみる。 
 
「あれはトマですね」 
 
 どうやら中心に見えた銀髪はトマのものであるらしく、侍女たちに得意の手品を見せているところらしい。 
 
 アレクがガリアから連れてきた二人は、普段は使用人として働いていた。 
 もちろんマザリーニの指示があれば、当初計画していた通りの働きをするが、普段は他の使用人たちと変わらない扱いを受ける。 
 現時点ではそれほど任務が多いわけではないので、今のように使用人たちと戯れることは少なくないようだ。 
 
 リュシーが言うには、トマは年齢問わず侍女たちに人気らしい。 
 確かに、容姿に優れ、物腰も柔らかく、手先が器用で様々な小技を持つトマは、さぞ女性に好印象を与えるだろう。 
 それはそうとうモテそうだな、と納得し、人だかりに向き直ると、トマと目があった。 
 トマはアレクがいたことに気づくと、スッと礼をする。 
 周りの侍女たちも何事かと振り返り、アレクを視界に入れると、慌てて姿勢を正し一斉に頭を下げた。 
 アレクはそれに頷くと、頭を上げるように言い、リュシーに視線を戻す。 
 
「じゃあ、リュシー。また」 
「はい、失礼いたしました」 
 
 リュシーに声をかけ、アレクはアンリエッタの部屋へ戻る。 
 
 
 
  
 アレクがアンリエッタの部屋に着くと、丁度彼女の準備も終わったところだった。 
 アンリエッタはアレクを伴い、ダイニングルームに向かう。 
 
 ダイニングルームのゆうに50人は座れるだろうと思える長いテーブルには、アンリエッタとマリアンヌだけがついた。 
 親娘は向かい合って座り、粛々と朝飯を取る。 
 空けてある上座は本来ならばマリアンヌが座るべきであろうが、彼女はわざとそこには座っていない。 
 マリアンヌにとって、そこは夫であった亡き先王、ヘンリーが座るべきところであるからだ。 
 もしマリアンヌがそこにつくことを許す人物がいるとすれば、それは新しいトリステインの王だけだろう。 
 アンリエッタも母の気持ちを分かっているため、そこに座ってはどうかとは言わない。 
 
 食後の紅茶を飲み、一息つく親娘。 
 穏やかな時間をしばらく過ごすと、マリアンヌが不意にアンリエッタに声をかけた。 
 
「アンリエッタ」 
 
 急に呼ばれたアンリエッタは、小首を傾げる。 
 
「何でしょうか、母さま?」 
 
 マリアンヌは愛しげにアンリエッタを見つめ、笑顔で問いかける。 
 
「あなたは、今、幸せ?」 
 
 アンリエッタは母の問いに、キョトンとした顔になった。 
 しかし、少しすると柔らかく微笑みながら答える。 
 
「ええ、母さま。アンリエッタは今、幸せですわ」 
 
 心の底からそう思っているだろうことが分かる表情であった。 
 
「そう……」 
 
 娘の答えに、マリアンヌは嬉しそうに微笑む。 
 アンリエッタもそんな母の顔を見て嬉しくなる。 
 
 この後に控えているデムリとの面会のために、アンリエッタはマリアンヌより先にダイニングルームを出ていく。 
 申し訳なさそうに頭を下げ、去っていく娘を、マリアンヌは柔らかく微笑みながら見送る。 
 完全にアンリエッタの姿が見えなくなった後、マリアンヌはあらためて椅子に深く座り込んだ。 
 静かになったダイニングルームで、マリアンヌは誰にも聞かれないように、一言呟く。 
 
「そう……アンリエッタは『今』、幸せなのね……」 
 
 
 
  
 マザリーニから渡された書簡にも目を通し、昼過ぎに行われたデムリとの面会も無事終わった。 
 これで今日の予定はなくなったアンリエッタは、自室にて椅子に座り体を休めている。 
 アレクはアンリエッタの前に紅茶を置くと、彼女が少し暇そうな表情をしているのに気づき、声をかける。 
 
「リュリ卿が新しい曲を作ったと伺いました。よろしければお呼びいたしましょうか?」 
 
 宮廷音楽家の一人が最近新しく作曲をしたという話を思い出し、アンリエッタにそう提案するが、彼女は首を横に振る。 
 さて、では他には何かあったかな、とアレクは部屋の窓から外へ視線を向け考えようとし―――そこに見えたものに顔をしかめさせた。 
 思わず動きを止めてしまったアレクだが、アンリエッタが「でも」と言葉を続けたので、我にかえる。 
 何かやりたいことでもできたのかと思い、アンリエッタに視線を戻す。 
 
「音楽というのはいいですわね。アレク、ヴァイオリンを取ってくださる?」 
 
 部屋の棚に飾られているヴァイオリンを指すアンリエッタ。 
 アレクは指示通りにそれを取り出し、アンリエッタに歩み寄る。 
 
「アンリエッタ様がお弾きに?」 
「いいえ」 
 
 アンリエッタは差し出されたヴァイオリンを一瞥すると、首を振る。 
 そして首をかしげているアレクに視線をやった。 
 その視線を受け、アレクは自分を指しながら、アンリエッタに尋ねる。 
 
「えっと……私が、ですか?」 
「ええ、アレクが、ですわ」 
 
 貴族である以上、基本教養として宮廷音楽を習わない者はいないため、簡単な楽器の弾き方は誰でも知っている。 
 それはアレクも例外ではない。 
 むしろアンリエッタの遊び相手として引き取られたアレクは、貴族に返り咲く前から彼女を楽しませるために様々な貴族たちの娯楽についても学んでいたため、得意といえる方だ。 
 それでも多少遠慮がちな理由は、これがアンリエッタのヴァイオリンだということから。 
 名誉なことではあるが、いささか貧乏くさいアレクは、あきらかに高価な楽器に少し気後れしてしまう。 
 
「よろしいのですか?」 
「構いませんわ」 
 
 できれば自分の楽器を持ってきたいが、アンリエッタがそういうのであれば、とヴァイオリンを構えた。 
 春をテーマに扱った曲を、ゆっくりとした旋律で奏でる。 
 宮廷音楽というより、大衆向けに近いものだが、アンリエッタはこちらのほうが好みだろう。 
 それは間違っていなかったようで、アンリエッタは楽しそうに微笑んでいた。 
 しばらく黙って聞いていたアンリエッタは、興が乗ったのか、アレクのヴァイオリンにあわせて歌い始めた。 
 
 アレクはアンリエッタに微笑みかけると、気づかれないように、横目で外に視線を移す。 
 この部屋からは、西の塔が見えた。 
 そこには『アレクサンドル』の両親が幽閉されている。 
 最後に彼らと会ったのは5年前、アレクがシュヴァリエに叙されたとき。 
 思い出すのは、やせ細った両親の姿。 
 あれ以来、言葉を届けることすらできていないのを、不甲斐なく思う。 
 
  
 次に思い出すのは、元の世界。 
 一端の社会人になる前に死んでしまった情けない息子を、『徹』の両親はどう思ったのだろう。 
 怒ったか、それとも悲しんでくれたか。 
 何にせよ、どちらの両親にしても、親不孝な息子であることには変わりない。 
 
  
 こちらに生まれてから20年。 
 4年間は、普通の貴族として贅沢な暮らしをしていた。 
 全く知らない世界への戸惑いと、夢のような現実への好奇心でいっぱいだったが、サン・テグジュペリ伯爵夫妻には随分かわいがってもらった。 
 
  
 その生家が取り潰しになってから16年。 
 息子には温情を、と嘆願してくれた両親には、やはり感謝の念が絶えない。 
 それを聞き入れてくれた先王ヘンリーにも。 
 
 そしてアンリエッタにも。 
 
 彼女が生まれていてくれたから、『アレク』はまともに生きていられた。 
 ときには大怪我をするほどの厳しい教育に耐えれたのは、この物語の中のような世界が楽しかったというのもあるが、両親の気持ちを無駄にしないためということと、ヘンリーとアンリエッタへの恩返しをするため。 
 すでにその一人のヘンリーは故人であるため、彼の分はトリステインという国に忠誠を誓うことで報いるつもりだ。 
 
  
 シュヴァリエに叙されてから5年。 
 運良く貴族に返り咲くことができたとはいえ、まだ両親を解放することはできていない。 
 たいした権力も資金も持ち合わせていないアレクにできることなど、精々アンリエッタに心の限り尽くすことだけだ。 
 しかし、いつかは両親を檻から解き放ち、精一杯親孝行したいと思う。 
 
  
 元の世界のことを忘れているわけではない。 
 『徹』としての死には、折り合いをつけているが、薄れているとはいえ、わずかに郷愁の念は残っているのだ。 
 あちらへの繋がりを見つけてからは、何らかの痕跡が見つからないか、探し回っている。 
 もし、あちらに行くことが出来る術を見つけたのなら、そのときはどうするつもりなのだろうか。 
 
  
 気づいたら20年が経っていた。 
 長いようで、短い20年間だった。 
 若くして死んだ第一の人生に不満をたれるべきだったのか、有り得ないと思っていた第二の人生に感謝するべきか。 
 アレクはわずかに複雑な思いを抱えたまま、二度目の生を過ごしている。 
 
 
 
 
 
 
  
 ハルケギニア大陸、始祖ブリミルの末裔が治めるトリステイン王国。 
 
 その王都トリスタニアの宮殿、王女アンリエッタの私室。 
 
 そこには、アレクが奏でるヴァイオリンの音と、アンリエッタの澄んだ声だけが響いている。 
 
 
 
  
 アレクの周りは、まだ―――平穏だった。 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
  
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