第1話 「非日常へ」










その日、川原悠司はいつもの通り大学から帰ってきたところであった。
大学入学とともに一人暮らしを始めた彼は、現在大学二年である。
うまいという訳では無いが多少家事ができる悠司は、帰り道の途中にあるスーパーへ寄り、自分のための食材を一通り買いそろえ、自分の家へとつながる道を歩いていた。

(あー、レポート水曜までだっけ。そろそろやっとくか)

提出期限が迫ってきた課題のことを考えながら、歩く悠司。
そうこうしているうちに自分の部屋があるアパートが見えてきた。
築10年の2階建てアパート。
悠司の部屋はその2階の角部屋である。
全10部屋ある内、入居者数はわずか4人。
悠司の部屋の隣と上下に人は入っておらず、音をあまり気にすることもない環境を、悠司はけっこう気に入っていた。
階段を上り2階へ向かう。
階段を登り切ったところで、すぐ手前の部屋のドアがガチャリと開く。

「太郎さん。お出かけですか?」
「ん? 悠司君か、おかえり。ああ、仕事だよ」

部屋から出てきたのは、髪型は七三分けでひょろりとした体つきに黒いスーツを着て、手には中身がわからない2m程の細長い竹刀袋のような物を持った、30半ばの男であった。
階段の一番近く、201号室の住人である田中太郎だ。
ベタすぎて偽名くさい名を持つ彼は、悠司と同じ階に住む唯一の人である。

「またこんな時間からですか? お疲れさまです」

現在の時刻は午後6時半。
彼はいつも同じ格好でこの時間に家を出て、午前8時頃に帰ってくる。
(手に持つ袋以外は)まっとうなサラリーマンにしか見えない彼が、なぜこんな時間に仕事へ出かけるのか不思議である。
悠司も何度かそのことを聞いてみたが、いつもはぐらかされていた。

「まぁ仕事だからね、しょうがない。じゃあね」
「あ、はい。お仕事頑張ってください」

片手をあげて歩き去っていく太郎。
その背中が階下へ消えるのを見送った悠司は、自分の部屋へ向かい歩き出した。
2階の一番奥、205号室が悠司の部屋である。
部屋のドアの前に立ち、スーパーの袋を左手に持ち、右手で鍵を取り出そうとする。

「鍵〜鍵〜鍵が出てこない〜♪」

なにやら変な歌を歌いながら鞄を漁る。
鍵が奥底の方へ入ってしまい、なかなか取り出すことができない。
スーパーの袋を床に置いてしゃがみ込み、鞄をガサゴソと漁ること5分。
やっとこさ鍵を取り出すことに成功する。
袋を持ち上げながら立ち上がり、鍵を差し込む。

(飯食ったらレポートやんなきゃな)

ガチャリと音が鳴り、鍵が開く。
鍵をポケットに仕舞い、ノブを捻り部屋へ入る。
スーパーの袋を置き、頭を上げると目の前は森だった。
……………………
…………………
………………
…………
………
……






「いや、意味がわからん」

右を見る。
森だった。
左を見る。
森だった。
後ろを見る。
森だった。
上を見る。
森だった。
前後左右問答無用に森である。
上は木に覆われ空が見えず、わずかに光が差し込むのみである。
下はいつのまにか草が生え、足元の感触は柔らかかった。
先ほど置いたスーパーの袋だけがある。

「うむぅ……」

腕を組み考え込む悠司。
なにせ部屋に入り、スーパーの袋を置いて頭を上げたら森である。
もう意味が分からない。

「ここ何処ですか?」

なぜか敬語でつぶやく。
どうしようかと考えるが、何も思いつかない。
とりあえず歩いてみることにした。
前後左右森なため何も目印のようなものもないが、前に向かうことにする。
袋を持ち上げ歩き出す。
適当に歩いてれば人に会うだろう。
そんなことを考える悠司だが、それは甘い考えであった。

















「何もねぇな……」

歩き始めて約3時間。
相も変わらず辺りは森である。
ここに来るまで見かけた物といえば、草、木、花、岩、石、鳥、虫くらいである。
発見したことは自分の体の異常。
悪い意味ではなく、少なくともこの場合では良い意味での異常。
歩き始めて3時間。
彼の体は疲れが全くなかった。
ここに来るまで、転んで木にぶつかったり躓いて石に膝をぶつけたりもしたが、それによる怪我もない。
悠司は初めこの事を不思議に思ったが、考えても原因は分からなかったため、面倒臭くなり考えるのをやめた。

しかし体は疲れないとはいえ腹は減るし、精神的にだるくなってきた。
さらに辺りは真っ暗である。
これ以上歩き回るのは良くないだろう。
そう考えた悠司は近くの大きな木の根本に腰を下ろし、手に持っているスーパーの袋を漁る。
酒の肴にと買ってあったチーかまを取り出し食べる。
食べ終わると辺りから枯れ木を拾ってきて、煙草用のライターを取り出し火をつける。

(今日は寝るか……)

どうしようもないので寝ることにする。
悠司の今の格好は、ジーンズに長袖のTシャツ、その上にジャケットを着ている。
転んだり引っかけたりしていたため、所々破けている。
かけるものも羽織るものもないため、多少寒いかもしれないがしょうがない。
起きたらどうしようかと考えながら、悠司は眠りについた。

















次の日の朝。
朝日と共に目覚めた悠司は、とりあえず手荷物の確認をすることにした。
朝目覚めても周りは森である。
こりゃ本格的にまずいと、やっと気付く。
いきなりこんな所へ来たのだから、またいきなり元の場所に戻ることもあるかもしれないが、ずっとこのままかもしれない。
楽観視するわけにもいかないだろうと考え、とりあえず現状の把握にいそしむ。

「スーパーで買った野菜につまみ、紙パックの烏龍茶、学校のテキストにプリント、筆箱、煙草2箱、ライター、財布、携帯、定期、腕時計くらいか……」

自分の手荷物の確認をする。
とりあえず食べ物に関しては2・3日は持ちそうだ。
生ものを先に食べ、節約すれば5日くらいは持つだろう。
できれば水を補給したいところではある。
テキストやプリント、定期など必要にならなそうなものを捨て、水を求めて歩き出す。





しばらくすると湖にだどりついた。
見てみると水は澄んでいて魚が跳ねている。
飲むことができそうだと判断し、荷物を置き少し休憩することにした。

「ふぅ、水がうまい」

湖の縁にしゃがみ込み水をすくって飲む。
そうしてしばらく水のうまさと安らぎのありがたさを実感していると、背後で物音がした。

「ん?」

音に反応し、立ち上がり振り向く。
熊がいた。
灰色の毛をした熊である。
グリズリーというやつなのだろうか。
しかも3頭。
でかい、2mはゆうに越えている。
見つめ合う悠司と3頭の熊。

「ふむ」

軽く頷く悠司。
何事もなかったように荷物を持ち、テクテクと湖沿いに歩く。
熊はこちらを見続けている。
熊から30m程離れた所まで歩きそこからダッシュ。
熊もそれを見て、悠司に向かってダッシュ。

「いや、怖すぎるだろ」

まったく怖がってなさそうな声でつぶやく。
森へ入るが、それでも熊は追ってくる。
逃げる悠司と追う熊。
その差は広がらず縮まない。

普通の人間が熊と追いかけっこをして、逃げ切れることはまずない。
しかし悠司は今現在普通の人間ではない。
不思議なことに異常な身体になっている。
その逃げ足は速く、足場の悪い獣道だというのに50km程の速度が出ている。
短距離走の選手でも瞬間最大速度は40kmに届かない。
あきらかに人間離れしている。
しかし相手もさることながら。
障害物の多い森だというのに、やたらと身軽な動きで悠司を追う。
彼らも普通の熊ではないのかもしれない。

そうして1時間程追いかけっこを続けていると、開けた場所に出た。
その先は崖である。
あやうく落ちそうになるところで急ストップする悠司。
下までは50mはありそうだ。
あぶないあぶない、と汗を拭っていると、後ろの森から3頭の熊が現れた。
どうやら追いつかれたようだ。
前門の虎(熊)後門の狼(崖)。

(さて、どうしよう)

絶体絶命のピンチであるにも関わらず、やけに冷静な悠司。
どうしようかと考え込む。
いくら身体能力が上がっていたとしても、悠司は獣と格闘したことなど無い。
それどころか格闘技を習っていたこともない。
高校まではバスケットと日本舞踊をしていたが、この場面で役に立つことはないだろう。
フェイントをかけて横をすり抜けようにも、ファウルなど取られないのでなぎ払われるだろう。
また、ここで荒城の月など踊っても何の意味もない。

そんなことを考えている内に熊に近寄られていた。
その距離約5m。
3頭とも立ち上がり臨戦態勢である。
襲う気満々。
なんとか攻撃をくぐり抜け、逃げ切ろう。
悠司はそう考え、熊をじっと見つめる。
いざ悠司に襲いかかろうと真ん中の熊が一歩踏み出す―――

「風よ!」

―――と同時に声が聞こえ、横合いから風が吹き3頭の熊を吹き飛ばす。
10m程飛び、悲鳴を上げながら3頭の熊は崖から落ちていく。
悠司は驚き、声が聞こえてきた方向を見る。

「大丈夫だった?」

そこには一人の女性がいた。
話の中の魔法使いが身につけるような紫色のローブを着込み、肩ほどにのばした金色の髪を揺らしながら、こちらへ駆け寄ってくる。
どうやったかはわからないが、今のはこの女性がしたようだ。
近くまで来ると、その容姿がよくわかる。
見た目年は悠司とそう変わらない。
とがった耳が普通とは違うが、町を歩けば大概の人が振り向くであろう美人だ。

「怪我はしてないようね。よかったわ」

女性は安心したように微笑む。
悠司はその優しそうな碧眼を見つめ、口を開く。

「あぁ、助かりました。ありがとうございます。それでちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「何?」

此処に来てから初めて人と出会った。
色々と聞くことは多そうだ。
とりあえず此処がどこか訪ねよう。
悠司はそう考え、女性に話しかける。
これにより悠司の非日常的な日常が始まる。


















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