prologue.
その光景に、私は目を奪われた。
迅速、苛烈、強靭。
どれほどの形容をもってしても表現しきれないであろう、その強く美しい姿。脆弱なはずである人間が織り成す、圧倒的強者に対する蹂躙。天空を我が物顔で自由に駆け巡る竜種――その中において最速を誇る風竜は、ただ一人の人間が巻き起こす颶風によって翻弄されていた。
その顔の下半分を隠す鉄仮面の輝きは、見る者全てを畏怖させるだろう。
その名を聞くたびに、野卑な無頼漢どもは恐怖に身を縮ませるだろう。
その存在を前にすれば、どれほど豪胆な人物だとしても、毛骨悚然とすることを禁じえないはずだ。
私もそれは例外ではなかった。
噂には聞いていた。今現在もっとも有名なメイジだ。逸話にはことを欠かない。王国始まって以来の、風の使い手。大規模な反乱を、ただ一人でもって鎮圧した。その人物が出陣しただけで、ゲルマニア軍は尻尾を巻いて逃げだしたともいう。
この目で見るまでは、そんな噂は馬鹿馬鹿しいと思っていた。噂には尾ひれ背びれがつくものだが、それにしても過剰にもほどがあるだろう、と。しかし、この目で直に見て初めて解った。噂は誇張されたものではない、事実だったのだ――いや、むしろ、氷山の一角でしかなかったのだ。
無理もない。いったい誰が信じられるというのだろうか。
若く雄々しい一頭のマンティコアが空を翔け、風竜の間を縫うようにして通り過ぎるたびに巻き起こる暴虐の嵐。跨った一人の騎士が、羽虫を叩き落とすがの如く空の支配者を地に落としていく。まさしく、お伽噺に伝わる英雄譚のごとき光景。人が数多の竜を打倒し得るということが、目の前で容易く肯定されていた。
私は国内随一の伝統と格式を持つ公爵家の跡取りだ。母国トリステインはもちろん、他国の軍人との面識も多々ある。強いと言われるメイジなど、それこそ今まで掃いて捨てるほど見てきた。中には私など相手にならない者も、もちろんいた。――しかし。
これほどまでに――これほどまでに“高い”メイジなど、この世にいるとは思わなかった。
ただ目を奪われた。ただ耳を傾けた。ただ胸が高鳴っていた。
生きる伝説。存在する英雄。トリステインに生を受け、今を生きる者ならば、たとえ乳飲み子であっても一度は聞いたことがあるに違いない、近衛隊の一角である現マンティコア隊の隊長。遠く、空の彼方での舞い一つで、私の心を奪った人物。
その名は――“烈風”カリンといった。
ViolentWind 前
1.
「民の避難を最優先させろ! 無理に倒そうとしなくともよい!」
上空から繰り出されるブレスを防ぎながら、兵たちに指示を出す。快晴の大空を覆うのは、日和に似つかわしくない暗い光景。鈍く青光りする鱗を全身に纏わせ、鋭い牙をぎらつかせながら、眼下にいる我々人間を見下ろしている。ハルケギニアに存在する幻獣の中において、最強格として扱われる竜種。その一種である風竜が、三十頭を越すであろう群れで飛び交っていた。
領地のとある街に、突然風竜の群れが襲撃してきたと急報を受けたのは、もう三時間以上前のこと。住民は恐慌状態。前触れなく災厄が降りかかってきたために、街は混乱の渦と化している。
領主であるラ・ヴァリエール公爵家の跡取りたる私が、足の速いもので揃えた一個中隊を率いて討伐に来たものの、我先にと逃げ出す住民たちに行動を狭められ、無様にも身動きが取れなくなっている。
すでに隊には数十名の重軽傷者が出ていた。街の住民にも、幾人か怪我を負った者もいる。私が跨る愛馬にも、隊の兵士たちの顔にも疲労の色が濃い。かくいう私自身も、すでに精神力が残り少なくなってきている。加えて一向にはかどらない避難に、私の胸は焦燥で埋められていく一方だった。
「ガストン! 避難はまだ済まんのか!?」
馬を止め声を張り上げると、腹心のガストンが皺の浮かんだ顔を顰めさせながら、返事をする。
「まだ半分も済んでおりません!」
「何だと!? いくら時間をかけるつもりだ!」
「申し訳ありません! しかし、馬車の数にも限りがありますので、家財を運び出すのが捗りませんで――」
「身一つで逃げるようにさせろ! 私財の保証は後でいくらでもする! 一刻も早く、この場から離れるように指示を出せ!」
「かしこまりました!」
ガストンが周りの兵士に指示を出すのを横目に、“フレイム・ボール”を放って風竜を牽制する。竜はそれに一旦怯むものの、僅かに高度を上げると、再度ブレスを放ってきた。先ほどからずっと、このようなことの繰り返しだ、キリがない。
こちらも騎乗用の風竜でも連れてくれば良かったか、と考えが及ぶが、すぐさま頭を振る。飼ってある風竜の数などごく僅かであるし、下手をすれば同種の気にあてられてコントロールが取れなくなるかもしれない。空を翔ける風竜の威容に今跨っている馬も怯えてはいるが、言うことを聞かないよりは余程マシだ。
馬の鬣を撫でながら、空を見上げる。
数が増えているわけではないが、けして減ってもいない。二頭三頭ほどは落としたはずだが、未だ上空には数多の風竜が、耳を劈くかのような泣き声をあげながら飛び廻っていた。
「くそっ……!」
思わずらしからぬ罵倒が口をついて出た。
このままでは、隊が壊滅してしまう恐れがある。一度撤退するかとも思うが、そうもいかない。そうなればこの街が風竜に蹂躙されるのが目に見えている。それは認められない。街の復興にかかる資金や時間がどれほどかかるかなど考えたくもない。何よりも、今まで住んでいた居場所が失われる民の絶望感は、どれほどのものか。
こうなれば、精鋭を率いて玉砕覚悟で突貫するしかないだろうか、という思いが浮かぶ。手に持つたずなと杖を力強く握りしめ、兵たちに指示を出そうとする――と。群れの後方で羽ばたいていた数頭の風竜が、雄叫びをあげながら建物に墜落して行くのが見えた。
「いったい、何が……」
「若様、あちらを!」
突然のことに困惑していると、ガストンがある場所を指し示しながら声を上げたのが、耳に入ってきた。その指先を辿るようにして目をむけると、竜たちの後方に、二十頭ほどの何かがこちらにむかって飛んでくるのが見えた。
目を凝らしてその何かを見る。
獅子の体に赤い毛皮。まるで鷲のような翼をもち、おそろしい牙を剥き出しにしながら、雄々しい鳴き声を上げつつ、隊列を組んで飛んでくるのが見える。甲冑を着込んだ騎士たちを乗せたそれは――
「マンティコアです、若様! しかも、あれほどの数に、背に跨る騎士。おそらく、近衛隊であるマンティコア隊でしょう!」
喜色満面の笑みでガストンが叫んだ。なるほど、よくよく見てみれば、騎士のマントにはマンティコアの刺繍が縫い付けてある。トリステインが誇る近衛三隊、その一角であるマンティコア隊の面々が、鬨をつくって風竜の群れに襲いかかった。
マンティコア隊は鶴翼に広がり、風竜どもを分散させないように押し込める。まるで一体の獣のようだ。一頭たりとも乱れや躊躇いがない、見事なまでに訓練された動きだった。
――と。
一頭、一際大きなマンティコアが、単独で風竜の群れに突っ込んでいくのが見えた。
無謀だ。いくら訓練された軍人だとしても、あれほどの数の風竜に単独で攻勢を仕掛けるなど、自殺行為としか思えない。竜種の中でもブレスの威力が比較的低い風竜だとしても、まともにくらえば高位のメイジでも一溜りもない。何よりその機動力は、マンティコアなど優に越えているのだ。囲まれてしまえば、けして逃げることはできないだろう。
案の定、愚かにも群れの中心に孤立したその騎士は、ブレスを放とうとしている風竜に、四方八方を囲まれた。遠目から見ても、そのマンティコアが抜け出せるような道筋は見当たらない。次の瞬間。六条のブレスが、マンティコアともども騎士を呑みこ――
「――なっ!?」
――む寸前、騎士の杖の一振りが巻き起こした竜巻に蹴散らされた。
信じられるものではなかった。ただ一振り、その騎士が右腕を振るっただけで、周りを囲んでいた六頭の風竜は、吹き飛ばされ地に墜ちたのだ。あまりにも強力な“カッター・トルネード”。風の四乗が込められた巨大な竜巻は、その間に挟まる真空の層をもって、頑強な竜の鱗をまるで木の葉のように切り裂いた。
「若様、チャンスです! 我々も参りましょうぞ!」
ぼうっとその勇壮な様を見ていると、不意にガストンに声をかけられた。そうだ、呆けている場合ではない。マンティコア隊の参戦に、風竜は混乱している。このチャンスを逃す愚はありえない。
「よし! いくぞ皆の者! 生意気にも空を飛ぶ蜥蜴どもを、一頭残らず地に落とせ! 我々を見下すことが如何に傲慢か、あの愚か者どもに思い知らせてやれ!」
『応! 応! 応!』
「――突貫せよ!!」
合図とともに、兵たちは馬を駆り、風竜の群れへ進軍を始めた。すかさず私も馬の腹を蹴り、杖を掲げて走り始める。ただ一点、風竜の中心で、今なお台風の如く吹き荒れる人物を見つめながら。
*
その後風竜の掃討は、三十分足らずで完了した。ほとんどはマンティコア隊の、いや、一人の騎士による成果だ。五頭ほどは尻尾を巻いて逃げだしたが、残りは全て撃ち落としている。これでこの街に襲いかかってくることは、そうないだろう。
後始末の指示をしていると、他にいないか空から辺りを窺ってくれていたマンティコア隊の面々が降り立った。ガストンに後を任せ、そちらに駆け寄る。
「ありがとうございます、助かりました。隊長殿はいらっしゃいますか?」
「ええ、隊長でしたら……」
一番に近くにいた年の若い男性が、後ろを振り向く。少し見渡すと目的の人物を見つけたようで、片手を振って声を張り上げた。
「隊長! こっちです!」
隊の面々を掻き分けるようにして、一人の人物が進み出てくる。
顔の下半分を隠す鉄仮面。飾り羽のついた大きなハット。全身を覆う光沢のある甲冑の上に、近衛の証である黒いマントを羽織っていた。
思わず唾を飲み込む。噂は耳にたこができるほど聞いていたが、こうして相対するのは初めてだ。凡そ七年前だっただろうか。当時、持前の胆力でハルケギニア有数のメイジとして名を馳せていたマンティコア隊の隊長が、自分よりも遥かに相応しいと自信を持って推挙したのは。
十年に満たない僅かな期間で、数々の武功を立てた、間違いなく現在のハルケギニア最強の一人であろうメイジ。市井の民ですら、我が子に英雄譚を聞かせるときには、『イーヴァルディの勇者』と並んで、この人の存在を語り聞かせることが多いという。
現マンティコア隊隊長“烈風”カリン、その人である。
「初めまして、ラ・ヴァリエールの長子、アランです。かの烈風殿とお会いでき、光栄です」
手袋を外して、片手を差し出す。我知らず緊張しているのか、僅かに震えてるのが解った。しかし、カリン殿は頓着することなく、カチャカチャと甲冑を鳴らしながら、同じように手を出してくれた。
「ご丁寧にどうも、マンティコア隊隊長のカリンです。こちらこそ、ラ・ヴァリエールのお世継ぎとお会いできて、まことに嬉しく思います」
鉄仮面に遮られているせいか、その声はくぐもって聞こえたが、予想よりも高めであった。見てみると、印象よりも小柄だ。甲冑を着込んでいるので詳しくは解らないが、体つきも細目に見える。意外と若い方なのだろうか。
僅かに垣間見える切れ長の瞳からは、強い意志を感じられたが、丁寧な物腰も相俟って、先ほど十頭を超す風竜を撃墜せしめた怪物のごとき腕を持った騎士とは、同一人物に思えなかった。
「風竜の撃退にご尽力いただき、感謝いたします。非常に切迫していたので、もしマンティコア隊の方々がいなかったらと思うと、ぞっとしてしまいます。そういえば、あなた方は何故ここへ?」
私が急報を受けてから、まだ四時間ほどしか経っていない。いくらマンティコアが馬よりも速く移動できるとはいえ、王都からここまで来るには早すぎる。連絡がいくまででも、二日近くかかるだろう。
それに近衛を応援に来させるならば、まず最速のヒポグリフ隊を出すはずだ。マンティコアは、残りの近衛であるグリフォン隊と比べても、その足は比較的遅い。
「ガリアからの帰りです。風竜が群れをなして移動しているのが遠目に見えたため、何事かと思いまして。急いで駆けつけてみると、街を襲っていたため、加勢することにしました。余計なお世話でしたでしょうか?」
「いえ、先ほど申しましたとおり、あなた方が来てくれなければ全滅していた恐れもありました。感謝こそすれ、疎むようなことは一切ございません」
「そうですか、それは良かった」
「ところで何故ガリアへ? ――ああ、いや! 余人には洩らせぬ任務でしたのなら、もちろん詳しく聞くことはいたしませんが……」
思わず口から洩れた疑問に、カリン殿が少し首をかしげる動作をしたため、聞いてはならぬことを聞いてしまったのかと、つい慌ててしまう。
「いえ……」
私の動作を滑稽に思ったのか、仮面とハットの間から覗く瞳が僅かに弧を描いた。顔が熱を持つのが解る。みっともないところを見せてしまった。
「近日、陛下の誕生日を祝う園遊会が、ラグドリアン湖の畔で開かれます。我々はその招待状を、ガリア王陛下にお届けする命を仰せつかったものですから」
なるほど、そのことについては、私も聞き及んでいる。現在のトリステインの国王陛下であるフィリップ様のご誕生会のことだ。各国から王族貴族を招くのも、おかしいことではない。
しかし、
「何故わざわざ近衛のあなた方が? 使者を立てるのが通常だと思いますが」
「道中での安全確認も同時に行っています。使者を立てその護衛に騎士団をつけるよりは、どちらもこなせる我々がむかうのが、効率的だったのでしょう。他の近衛でなくマンティコア隊が選ばれたのは、長距離飛行に適しているためかと」
「なるほど」
近衛の隊長は、いわば元帥格にあたる。適当な人選とはいえないだろうが、国王に謁見して失礼でない位を持ち、なおかつ道中の安全確認をできるほどの規模を持つ騎士団に相当する戦力といえば、近衛隊しかない。また、マンティコアは他の幻獣と比べ早さこそはないが体力はずば抜けているので、千リーグを越すガリア王都リュティスまでの長旅にも耐えられる。
何にせよ、僥倖であったと言えるだろう。もしマンティコア隊がガリアへ向かわされていなければ、隊は壊滅し、私も死んでいてもおかしくはなかった。感謝のしようもない。
「いや、お陰さまで命拾いをしたというものです。よろしければ、ぜひお礼を。ご足労ではありますが、どうか歓迎を受けていただきませんでしょうか?」
目の前の人物は命の恩人ともいえる存在だ。お礼を言うだけ言ってさようならでは、さすがに礼を失するし貴族の名折れである。そう考えてぜひにと屋敷へ招待してみたが、
「いえ、一両日中に戻るよう指示が出ていますので。それに、陛下へとご報告を上げるまでは任務完了とは言えませぬ。任務中は出来得る限り嗜好を満たす真似はしないよう、隊のルールを定めております故。そのお気持ちだけありがたく承ります」
「どうかそう言わずに……」
「申し訳ありません、規則は規則です」
重ねて誘ってみるものの断られる。表面上は柔らかいものだが、けして受けようとはしないのが見てとれた。真面目で実直な人物なのだろうか。凛とした佇まいに、自然と似合う気質といえる。残念ではあるが、こうして断られたのなら無理強いするのは失礼というものだろう。こちらの気を満たすために、肝心の相手の気分を悪くするのは本末転倒だ。
「そうですが……。では、もし後に機会がありましたら」
「はい。では、失礼させていただきます」
「報告は近日中に上げておきます。誠にお世話になりました」
カリン殿は一つ頷くと、他のマンティコア隊の面々に指示を出す。点呼をさせ全員が欠けることなく揃っていることを確認すると、再度こちらに頭を下げてから、軽快にマンティコアを飛びださせた。鮮やかに編隊を組んだマンティコアたちは、颯爽と蒼穹の彼方へと消え去っていく。その後姿を見えなくなるまで見送った後、ガストンに後始末の確認を取り、屋敷へと引き上げることにした。
近いうちにまた、カリン殿と再開できることを望みながら。
2.
風竜の討伐からおよそ一月後。
トリステインとガリアの国境に位置する、ハルケギニア随一ともいえる名勝ラグドリアン湖の湖畔で、現国王フィリップ陛下の誕生会が開催された。
会場には煌びやかな飾り付けがなされ、私どもトリステイン貴族のみならず、ガリア、アルビオン、ロマリア、ゲルマニアなど、ハルケギニア中の王侯貴族が服を着飾り、髭を整え、見目麗しい女性を傍らに、贅沢の粋を集めた園遊会を楽しんでいる。
森の緑と湖の青が織り成すコントラスト。高地特有の清々しい夜風。遥か昔、人間がまだこの地いなかった時分から存在し、水底で楽園を築き独自の文化を形成する水の精霊が住まうラグドリアン湖は、まさに自然の芸術とも言うべき完成度の高さを誇り、見る者の目を満たしている。
夜空と湖水に浮かぶ四つの月を眺めながら、普段は目にかかることも珍しい豪勢な晩餐と、それぞれの国が抱える宮廷音楽家が奏でる旋律に酔いしれた。人々を包む不思議な高揚感は幾日経とうと色あせることをせず、園遊会は二週間もの期間に渡って開かれることになるという。
贅沢だとも過剰な演出だとも思うが、これは一種の示威行為に近いものもある。諸国にいかにトリステインが煌びやかで華々しい国なのか、どれほどの財力を所有しているのかを見せびらかす。そういった意図も、少なからずあるのだろう。
そんな中、私はどうにも浮つかない気持ちに戸惑いながら、一人寂しくワイングラスを傾ける。
陛下や殿下、他国の王族の方々など、主な首脳陣に父とともに挨拶周りをし、表面上はにこやかな表情で擦り寄ってくる狡猾な貴族を振り払いながら、ざわざわと騒がしい人波を掻き分け密度の薄い場所に出る頃には、もう素直に園遊会を楽しむ気力を維持できていなかった。
この園遊会自体が嫌であったわけではない。大貴族の息子であるため、多数の参加者が私に取り入ろうと擦り寄ってくるのは好ましくはないが、私とてすでに社交界に出ている身だ。他の貴族と関係をつくることが如何に重要かは理解している。また、崇敬するフィリップ陛下の誕生を祝う会であるならば、参加することに否応はない。
しかし、どうにも乗り気になれない。
原因は何となく察しがついている。記憶からいつまでも離れないある人物。あれ以来、あの人のことが脳裏に焼きつき離れないせいか、何をやっていていても上の空になってしまうのだ。
まるで初恋をした思春期の少年のような心持に、自分のことながら苦笑いがこぼれる。
あの人は女性ではないというのに。近衛であるマンティコア隊の隊長という地位。風竜の群れを苦もなく撃退した、勇猛で峻烈な姿。どれをとっても、あの人が女性である要素が見当たらない。
確かに、男装の麗人だという噂もあった。それに、先日間近で見聞きしたあの人の体型や声。私よりも十サント弱ほど低い身長に、成人した男性にしては高い音域。低い確率ではあるが、女性だという可能性はあるだろう。
しかし、あまりにも荒唐無稽すぎる。そもそも、あの人の素顔を見たことがあるという人物すら、私の知る限りではいないのだ。何故顔を隠しているか、興味がないといえば嘘になるが、何か隠さざるを得ない理由があるのだろう。そこまで踏み込むというのは、下種の勘ぐりというものだ。
「おや? アラン殿、お一人で何を?」
つらつらとそんなことを考えていると、不意に背後から声をかけられた。
突然のことに若干鼓動が激しくなった胸を沈ませつつ振り返ると、一人の若い男性が、甲冑姿で立っている。園遊会に参加している貴族とは思えない無骨な格好。しかし、その顔には見覚えがある。どこで見たのだろうか、と頭を捻っていると、その男性は苦笑いを作って話しかけてきた。
「お忘れですか? ほら、先日お会いした、マンティコア隊の隊員です」
「――ああ」
その言葉に、私はようやく男性のことを思い出した。風竜の件のときに、確か私が初めに声をかけた男性だ。カリン殿の印象が強かったため、はっきりと覚えていなかったようだ。
「あれほどお世話になったというのに……。これは申し訳ない、大変失礼しました」
「いえ、かまいません。名乗ってもいない相手のことなど、覚えていないのが当たり前でしょう」
慌てて頭を下げるが、男性は軽く手を振って許してくれる。
「そういっていただけると助かります。ところでその、ミスタ――」
「ゼッサールといいます。ラウル・ド・ゼッサール。マンティコア隊の副隊長を務めております」
「そうですか、ミスタ・ゼッサール。それにしても、そのお歳で副隊長とは……。ミスタ・ゼッサールは、よほど努力をなされたのでしょうな」
見たところ、ミスタの年齢は私より幾分若いくらい。おそらく、二十代前半といったところだろう。もしかすると、大柄な体格なため実年齢より年上に見えるのかもしれない。そうであったなら、二十を一つか二つ過ぎたといったところだ。
そのような若い身空で近衛隊の副隊長を務めるなど、それこそ血の滲むような努力を重ねてきたに違いない。思わず感嘆のため息が漏れる。
「努力、ですか……」
「……何か、お気に障りましたか?」
戸惑うような言葉を発するミスタに、まずいことを言ったのかと首をひねる。
「ああ、いえ。私が副隊長などと聞くと、大抵の方は家のことだとか才能だとか仰るものですから」
なるほど、いろいろとやっかみを言われることが多いのだろう。
近衛隊に所属する者は、総じて上流貴族が多い。もちろん陛下をお守りするべく整えられた部隊なので、魔法の腕に関しては言うまでもない。しかし、下級貴族では入隊することもできないのが通常だ。単純に戦力としての役割だけでなく、式典に参列することが多々あり、基本的に王宮にいるからという理由もある。
そんな中で、若輩者がその華々しい地位についていることが気に食わない連中は、それこそ五万といるだろう。目立つゆえの有名税といったところか。しかし、
「これでも私は一人前の貴族を気取っています。社交界に出れば、様々な貴族と顔を合わせることがありますので、多少は人を見る目があると自負しております。ときには、自身の家柄を間違った方向に誇りにしている者たちも見てきました。しかし、あなたはそうは見えません」
そう、私はミスタのことなど、好みのワインも得意な魔法も持っている勲章の種類も知らない。そんな立場でこのようなことを言うなどおこがましくはあるだろうが、それでもミスタ・ゼッサールは立派な貴族に見えた。
「ええ……。そう言っていただけると、とても嬉しいです。あなたに出会えたことを、感謝したく思います。ありがとうございます、アラン殿」
「いえ、こちらこそ」
はにかんだ笑いを洩らすミスタに、私もつられて笑顔がこぼれる。
「――と。ミスタ、何かお飲み物は?」
一度落ち着いたところで、ミスタが何も持っていないことに気づいた。このような晴々しい席だ。ワインの一杯も口に含まないなど、勿体ないことである。
「いえ、私は任務中ですので。園遊会が開催される二週間の間は、近衛が日替わりで警備することになっています。本日は、我らの番でして」
なるほど、それでこのような甲冑姿だったのか。
「まあ、一杯くらいはよろしいではないですか。乾杯願えませんか?」
「申し訳ありません、規則ですので」
重ねて進めるが、固辞される。ならば残念だが、諦めるしかないか。それにしても、
「先日のカリン殿といい、マンティコア隊には真面目な方が多いのですな。いや、揶揄しているわけではありませんが」
「我が隊のモットーは、“鋼鉄の規律”ですので。我らが隊長殿は、何よりも規律違反を嫌っております。もし破ったとなれば、どのようなお叱りを受けるか……」
そう言ってミスタはわざとらしく震えた。行動こそはふざけているようにみせているが、瞳の色が本気を窺わせてくれる。どうやら、カリン殿は余程規律にうるさいらしい。
「そうですか。ところで、そのカリン殿はどちらへ? 挨拶の一つでもしたいのですが」
ここへ来てから騎士装束をした者は幾人も見たが、その中にカリン殿の姿はなかった。副隊長であるミスタ・ゼッサールの近くにいる可能性は高いと思うが、辺りを見回してみても、カリン殿の姿は見当たらない。
何せ、あの件以来、カリン殿と会う機会はなかったのだ。基本的に私は自領にいることが多いので、トリスタニアに足を運ぶことは少ない。こういう場に出席でもしなければ、近衛と相見える機会はそうそうないのだ。ありがたいことにこうしてミスタに出会えたこともあるので、できればカリン殿にもお会いしたい。
「隊長は、その……。今回の警備には参加しておりません」
「参加していない? 隊長であるカリン殿がですか? 何か他の命でも受けたのでしょうか。ああ、もしかして、お加減がよろしくないとか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
ミスタは困ったように頬を掻くだけで、言葉を重ねようとはしなかった。どうにも歯切れが悪いその様子に、訝しく思いさらに問いかけようとすると、
「アラン!」
背後から声をかけられた。
いったい誰かと、いささか気分を害しながら振り向くと、そこには立派な口髭を生やした、五十がらみの紳士がこちらに近づいてくるところであった。私の父である、ラ・ヴァリエール公爵だ。
私と一緒に挨拶回りをした後、個人的な友人と談笑をしていたはずの父が、何故ここにいるのだろうか。
「父上、どうかなさいましたか?」
「探したぞアラン、こちらへこい。お前に紹介したい方が――おや?」
そこまで言ってようやく父は、ミスタ・ゼッサールの存在に気づいたようだ。
「君は確かマンティコア隊の……」
「はっ。マンティコア隊副隊長、ド・ゼッサールにございます。ヴァリエール公爵閣下におかれましては、お変わりなく」
「そう、ラウル殿でしたな。アランとはいつから?」
「つい先日、ご領地で起こりました件の風竜撃退にて」
「ああ、なるほど。その件については、息子より聞き及んでおります。大変お世話になったようで」
「もったいなきお言葉にございます」
どうやら、父と彼は顔見知りのようだ。私とは違い、父はよく王宮へ参内するため、近衛とも何度も顔を合わせているのだろう。しかし、世間話が好きな父を放っておいたら、日が昇るまで話し込んでしまいそうだ。それではミスタに災難である。不躾ではあるが、話を遮って父に声をかける。
「お話し中申し訳ありません。父上、私に用があったのでは?」
「おお、そうだ。アラン、こちらへ来い。ではラウル殿、また」
「はっ」
今まで忘れていたかのように、はっと我に返った父は、ミスタに一言告げると、さっさと歩きはじめてしまった。我が父ながら忙しないことだと呆れつつも、私もミスタに頭を下げると、その背中を追いかける。
*
ミスタの苦笑いを背に受けながら、父の後を追うと、二人の人影が見えた。
一人は父と同年代の男性。顎髭をゆらゆらと揺らしながら、もう一人に何か声をかけている。そのもう一人は男性の陰に隠れてよく見えないが、僅かにドレスの裾が覗いていることから、女性、それも比較的若い子女だということが解った。
父はそのうちの男性の方へ向かって声を張り上げる。
「ジュール!」
その男性は父の声に反応して、こちらから背けるようにしていた顔をむけた。
「おお、ヴィクトル、待っていたぞ。ん? そちらがアラン君か」
ジュールと呼ばれた男性は、父に笑顔をむけると、次いで私に視線をよこした。名前で呼び合っているということは、父とはかなり親しい間柄なのだろう。私が見たことがないということは、領地が近い方ではない。おそらく仕事上の関係から、親しくしている方であろうか。
「アラン、こちらは高等法院の院長であるドートリッシュ侯爵だ」
「初めましてアラン君、ヴィクトルからよく話は聞いている。ジュール・ド・ロレーヌ・ドートリッシュだ。院長といっても、すでに引退を間近に控えた身、すでに実務は後任のリッシュモン殿に任せっきりだがね」
気さくな笑みをうかべて差しのべてくるドートリッシュ侯爵。何故父が私に合わせようとしているのかは解らないが、戸惑いつつも手を合わせて自己紹介をする。
「お初にお目にかかります、アランです」
「うん、聞いていたとおり、美青年だね。ヴィクトルとは似ても似つかない」
侯爵はそう言って豪快に笑った。
「余計なお世話だ。ところで……」
父が憮然とした表情で返し、次いで侯爵の後ろを覗き込むようにする。侯爵はその父の動作に気づくと、一つ頷き後ろに振り返る。彼の真後ろにいるのは、一人の女性。
「前に出て挨拶をしなさい」
侯爵の言葉を受け、その女性が進み出る。
瞬間――私は思わず言葉を失った。
侯爵がその女性を指し示しながら口を開く。
「私の娘だ。次女だね。カリーヌという。カリーヌ、アラン君にご挨拶を」
鮮やかなピンクブロンド。冷たささえ感じるような、切れ長の目。きりっと締まった形の良い顔の輪郭。思わず怖じ気づきそうになるほど堂々とした姿勢で歩み出てきたその女性は、軽く頭を下げると、薄い唇を開き、その奥から透き通るような声を発した。
「カリーヌと申します。お目にかかれて光栄です、アラン様」
真っ直ぐむけられる視線に、息を呑む。
「……それだけかね? お前は相変わらず愛想がないね」
簡単に名前だけを名乗った女性に、侯爵は呆れたような溜息を吐く。
「アラン、いつまでも黙ってないで、何か言わんか。レディーに自己紹介させておいて自分はダンマリなど、恥ずかしくはないのか?」
「――え、ええ」
父の言葉に、私はようやく我に返る。
「初めまして、ラ・ヴァリエールが嫡男、アランと申します」
うまく口が回らず、それだけを言うのが精一杯だった。横から父の呆れたような視線が突き刺さるが、それを気にしている余裕などなかった。私の目と神経は、ただ目の前のカリーヌと名乗った女性にのみむけられていたのだから。
その女性は、私が今まで見たことがない人物だった。
それは間違いないだろう。今まで出会った全ての人の顔を覚えているわけでないが、これほど存在感がある人物ならば、忘れようもないはずだ。凛とした立ち姿。見た目はほっそりとした普通の女性でありながらも、奥底には一本通った何かが感じられる。
彼女は似ていた。あの人に。僅か一月前に一度会っただけで、私の心から離れなくなった人物――
そう、あの“烈風”カリン殿に。
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