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青の兄弟




 おれの弟は天才だった。

 ハルケギニア随一の魔法大国であるガリアの第一王子として生を受け、順風満帆な日々を送っていたある日のこと。臨月を迎えていた母が、産気づいたとの知らせがあった。
 父をはじめとした多くの人が息をのんで見守る中、おれの弟は祝福に包まれ誕生した。
 ガリア王家の証である青い見事な髪を持って生まれた弟は、父によりその場で“シャルル”の名が与えられた。
 母の容体が落ち着いたのを見計らい、シャルルの誕生パレードが行われた。
 一週間にも及んで盛大に開かれたパレード。首都リュティスのあちらこちらでは、普段ではまずお目にかかれない豪華な料理がふるまわれ、厳格な父が好んでいなかった旅芸人が動物芸や軽業を披露し、いつもは宮廷音楽しか奏でない楽団が陽気な音をふるまった。
 父は笑っていた。母も笑っていた。おれもまた――笑っていた。
 そう、おれはシャルルが生まれたのが嬉しかった。同年代の子供とそれほど接触を持てなかったおれは、“弟”という概念を教師から教えられたその日から、シャルルの誕生を心待ちにしていたのだ。
 おれが守るべき存在。おれと血の繋がった存在。おれと対等な存在。おれの愛すべき――弟。
 それがシャルルだったのだ。
 シャルルはそういう存在の――はずだったのだ。

 シャルルはまさに天才だった。あまりにチープで進んで使いたいとは思わないが、それでもシャルルを言い表すには、この言葉以外に言いようがない。
 おれが何一つできないことを、シャルルは容易くやってのける。
 五歳で空を飛んだシャルルは、七歳で火を完全に操った。十歳で銀を錬金した。十二歳のときには水の根本を理解した。
 歴史に通じ、経済を知り、数学を修めた。
 シャルルは人望もあった。
 普段は腹に一物を抱えて、薄暗い光を瞳の奥に湛えている宮廷の貴族たちも、シャルルの前では素直な笑顔を見せていた。貴族に怯えいつも顔色を窺うように見上げてくる平民たちも、シャルルの前では綻んだ顔を見せた。
 男も女も、子供も大人も老人も、シャルルと共にしているときは常に光にあふれていた。
 
 いつからだろうか、おれがシャルルに対して劣等感を抱きはじめていたのは。

 いつまでたっても魔法の使えないおれと違って、シャルルがあっさりと難解な魔法を行使したのを目の当たりにしたときだろうか。特技である将棋(チェス)を多少の優越感を持って教えていた時に、シャルルがあっさりとおれと同程度の腕前になったときだろうか。
 それとも、いつしか父と母がおれを見ていないことに気づいたときだっただろうか――。
 始祖ブリミルの正統なる血を引きながらも、まともに魔法を使えず、ただ一人、人形での戦争ごっこに興じているおれに、あらゆる人が軽蔑のまなざしを送った。
 魔法の才にあふれ、人望を集め、聖人のような清廉潔白な性を持つシャルルを、誰もが尊敬した。
 誰もが――父や母すらもおれのことをバカにしていた。その度にシャルルの口から出てくる言葉。

『兄さんは、まだ目覚めていないだけなんだ』
『兄さんは、いつかもっとすごいことができるよ』

 それはシャルルなりの励ましだったのだろう。しかし、シャルルは解っていたのだろうか。おれがどんな気持ちでその言葉を聞いていたのかを。

 時が経ち、おれたちにも子供ができた。
 おれの子であるイザベラは、おれによく似ていた。魔法の才に恵まれず、従妹に嫉妬の視線をむけるだけの矮小な存在。父に似て魔法も勉強も優秀なシャルロットとは全く違う、王家としての気品のかけらもない子供。
 まるでおれたち兄弟をそのまま映したかのような関係を見るたびに、おれの心はいつも暗い霧に覆われていた。
 だから、おれはイザベラを自分から遠ざけた。自分の子をかまわないおれを、シャルルは可哀そうだと責めていたが、知ったことではない。
 ただ、イザベラを傍に置きたくなかった。まるで自分を見ているようで――自分の惨めさを再認してしまいそうで、不安だったからだ。

 ある日、病床に伏せる父から、おれたち兄弟は呼び出された。
 すでに高齢の父は、病に罹り起き上がる気力もなく、ただ日がな一日寝台に寝そべるだけの毎日を送っている。
 父がおれたちを呼んだ理由には、察しがついていた。
 もう先が長くない父。彼がこの機になっておれたちを呼びつけるとしたら、ただ一つ――どちらがこの国の次期国王になるかを決めるということだろう。
 陰鬱とした気持ちでおれは父の居室に足をむけた。部屋の前で会ったシャルルの表情には、普段と変わったところは見受けられなかった。
 シャルルも解っていたはずだ、何故、今日父がおれたちを呼び寄せたのかを。それでもその表情に変化がないのは、おそらく自分が選ばれると確信していたに違いない。
 おれは内心ひどく歯噛みしながらも、それを現さないように努め、父の居室に足を踏み入れた。
 まるで枯れ枝のようにやせ細った父の枕もとに立ち、おれたちはそのときを待った。
 次に聞こえるのは解りきった言葉。宮中のだれもがシャルルを次代の王にふさわしいと感じている。母すらもおれを暗愚と呼び、シャルルを推していた。
 絶望に身を沈ませながら、処刑のときをまつ罪人のような心持で父の言葉を待つおれの耳に、弱々しい声が入り込んだ。

『……次王はジョゼフと為す』

 はじめはよく理解できなかった。
 父はきっと病気で惚けたに違いない。そうとしか思えなかった。
 今まで父はおれをバカにし続けていた。できそこないだと蔑んでいた。その父がおれを次王に叙すなどと、到底考えられることではなかった。
 いつまで待っても、父の口から訂正の言葉が出てこないことに、おれはようやくそれが父の選択なのだと理解した。
 たとえ病気で惚けていたのだとしても、今の父の気持はそれが真実なのだ。
 おれの心にはじめに生まれたのは、とてつもない歓喜。王の言葉は絶対だ。たとえ誰が反対しようが何を言おうが――そう、おれが断ったとしても、覆せる決定ではない。つまり次王はおれということが決まった瞬間だったのだ。
 次いであふれたのは、シャルルに対する優越感。
 あれほど皆に王にふさわしいと言われていたシャルル。自分のものになるはずだった権力が、その差し出した手からするりと零れ落ちたシャルル。
 その身を焦がすのはどのような感情だろうか。絶望か。嫉妬か。憤怒だろうか。
 おれはシャルルが悔しがる顔を想像した。今まで見たことがないような表情に違いあるまい。おれはその想像がたまらなく楽しくなり、シャルルの顔を覗き込んだ。

 ――シャルルは笑っていた。

 それを見たおれは絶望した。自分の下種な想像が如何に的外れだったかを知って。
 色を失ったおれの顔を見て、シャルルが放った言葉。おれは何があろうと、いつまでも――いつまでも忘れることはできないだろう。

『おめでとう』
『兄さんが王になってくれて、ほんとうによかった』
『ぼくは兄さんが大好きだからね』
『ぼくも一生懸命協力する』
『いっしょにこの国を素晴らしい国にしよう』

 そう言ってシャルルは満面の笑みをうかべた。一切の嫉妬も、邪気も皮肉もなにものも込められていない、本気で兄の戴冠を喜ぶ弟の笑顔が、そこにあったのだ。
 ――おれのシャルルに対する嫉妬が、強く深い憎悪に変わった瞬間だった。

 もう何も考えられなかった。心の内でナニカが崩れ去るような音を聞きながら、おれはひとつの決心をした。

 父から王位の継承を言い渡された数日後、犬猟頭から鹿を放ったという知らせを受け、おれたちはピエルフォン の森へ狩りに出かけた。
 何ら変わりない楽しそうな笑顔で、臣下とともに鹿を追いかけまわすシャルルの後姿を、小高い丘から見下ろす。シャルルは知らないだろう、これから己に身に何が起きるのかを。
 ソレを理解した瞬間、シャルルはどういう顔をするのだろうか。あのときと同様に、笑顔をうかべるのだろうか。それとも、今度こそ端正な顔を絶望に染め上げてくれるのだろうか。
 眼下でシャルルがお付きの者どもに指示を出す。鹿を追い込もうとしているのだろう。従者たちはシャルルの指示に従い、傍を離れて広がった。

 ――瞬間、おれは合図を出した。

 ヒュン、といった、空気を切り裂く小さな音が響いた。おそらく誰にも聞こえなかっただろう。しかし、喧噪にまぎれ届くはずのない音は、確かにおれの耳に入り込んだ。
 次いでさらに小さな、肉に矢じりが刺さる音。
 違和感を感じたのだろう。シャルルが元気よく駆っていた馬の足を止め、少し辺りを窺うように首を廻らす。そして自身の背中に手を回すと、そこに刺さっている矢を引き抜いた。
 従者どもが動きを止める。狩り場に少しの間、沈黙の帳が下りる。
 呆然と手に取った矢を見つめていたシャルルは、ゆっくりと背後を振り返り――落馬した。

 狩り場は混乱によって、一気に慌ただしくなった。声にならない叫びをあげながら、従者たちがシャルルに駆け寄る。おれの傍にいたやつらも、何事か騒ぎながら丘を下っていく。
 慌てて如何にかなるものではない。矢じりに塗られているのは即効性の強力な毒薬だ。水のメイジを呼んでいる声が聞こえるが、もうどうしようもない。水の秘薬を用いてもどうにもならない。すでにシャルルは死んでいるだろう。
 真昼に起こった突然の凶行。
 まだ父は次王におれを選んだことを公表していない。つまり、周りの人間にとっては、次期国王が暗殺されたことを示している。
 蟻のように右往左往している愚衆を見下ろし、おれはその場から一歩も動かず、ことの推移を見守っていた。すると、何人かが顔色を真っ青に染め上げ、恐怖に濁った瞳でこちらを見上げているのに気がついた。
 おれは首をかしげて辺りを見回す。何も変わったものはない。
 次第にその視線は、自分にむけられているのだと解った。
 何かおかしいだろうか、と軽く頬をなでると、その理由に思い至った。

 ――ああ、シャルル。

 あいつらは、おれが恐ろしくてあんな表情をしているのだ。

 ――おれが見たかったのは、お前のその顔だ。

 確かに、こんな男がこの場にいたら、さぞかし怖いだろう。

 ――いつも笑顔をうかべていたお前が。

 そう、おれの顔には確かに――。

 ――そんな滑稽な表情をするだなんて!





形容のしようもないほどの笑顔が張り付いていた。






   ◇






 ぼくの兄さんは天才だった。

 遥か古代より続く、六千年にも及ぶ歴史を持つ、ハルケギニア随一の魔法大国ガリア。その第二王子というのが、ぼくが生まれながらに与えられた地位だった。
 どれほどの有力な貴族であろうと目にしたことがないだろう絢爛豪華な調度品。国中から集められた優秀な教師陣。いつも慈愛に満ちた笑顔で包んでくれる、厳格な父と温和な母。ぼくはそんな環境で、何一つ不自由することなく育った。
 ハルケギニア最大の国家、総人口千五百万を超す国民を束ねる王家に生まれたのは、ぼくの誇りだ。
 聞いた話では、ぼくが生まれたときに催されたパレードは、それはそれは豪勢なものだったらしい。
 その話を聞いたときは、何故自分が覚えていないときにそんな楽しそうなことをやるんだ、と子供ながらに理不尽に憤慨したものだった。
 ところで、第二王子であるぼくの上には、当然ながら第一王子――つまり兄がいる。
 名をジョゼフというぼくの兄さんは、とても優しい人だ。
 兄さんはぼくのことをとても可愛がってくれた。ぼくは彼に「シャルル」と呼ばれるのが大好きだった。小さい頃は、いつも兄さんの後をついて回っていた気がする。
 ぼくの憧れの存在。ぼくと血の繋がった存在。ぼくの目指すべき存在。ぼくの愛すべき――兄。
 それが兄さんだった。
 兄さんはそういう存在の――はずだった。

 兄さんは天才だった。こう言うと負け犬の下らないやっかみのように聞こえてしまい、あまり進んで使いたくない言葉だが、それでも兄さんを言い表すのに、これ以外に言いようがない。
 ぼくが血のにじむような努力をしてやっと成し遂げられるようになったことを、兄さんは涼しい顔をしてやってのける。
 一緒に勉強をしているときのこと。はた目から見ても明らかに詰らなさそうで、真面目に教師の話を聞いていないはずなのに、先に理解するのはいつも兄さんだった。
 二人で話をしているときのこと。兄さんが何でもないような雑談としてふってきた話の内容が、まだ教師に教えられてもいない難しいものだったので、何故そんなことを知っているのか尋ねた。すると兄さんはきょとんとした表情でこともなげに「シャルルだってこれくらい知っているだろう?」と言い放った。

 いつからだろう、ぼくが兄さんに対して畏怖を抱きはじめていたのは。

 授業の最中、兄さんが時折り思い出すように教師にする質問が、ぼくのそれよりずっと要旨をとらえていることに気づいたときだろうか。いくらか成長して手伝わされるようになった政務で、片手間にやっているようで、ぼくのより効果的な案を容易に出してくるのを目の当たりにしたときだろうか。
 それとも、兄さんが一度たりとも本気になっていないことに気づいたときだろうか――。
 そんな兄さんにも、唯一といっていい苦手なものがあった。
 貴族ならば誰もが使えるはずの魔法――兄さんはそれが一切行使できなかったのだ。
 このときだけは――魔法の練習をしているときだけは、ぼくは兄さんより優秀なのだと実感できた。幸いにしてぼくには魔法の才能があったのか、ぐんぐんと成長することができた。
 ぼくが嬉しそうに魔法を使う瞬間、兄さんがうかべるあの表情。ぼくはそれを見ると、胸がすっとした。だからその表情をもっと見たくて、よくこんな言葉を言っていた。

『兄さんは、まだ目覚めていないだけなんだ』
『兄さんは、いつかもっとすごいことができるよ』

 優しい兄さんのことだから、きっと僕が彼を励ましているとでも勘違いしていただろう。しかし、そのときのぼくには、そんな気持はこれっぽっちもなかった。
 ただ――優越感に浸りたかっただけだ。

 時が経ち、ぼくたちにも子供ができた。
 喜ばしいことに、ぼくの娘であるシャルロットは、とても才能にあふれた子だった。兄さんの子供であるイザベラは、彼に似たのか自由奔放で――魔法の才能がなかった。
 またひとつ、兄さんを上回れる要素が見つかった瞬間だった。
 もちろん愛する妻との間にできた愛おしい娘だ。才能がなくとも、シャルロットを可愛がることはできただろう。しかし、兄さんに勝つというぼくの人生目標を達成することに、大きな援護が加わったようで。ぼくは何よりもそれが嬉しかった。
 子供たちが成長していくと、兄さんはイザベラと疎遠になっていった。必然、僕たち親子も、イザベラと距離を置くことになる。
 ぼくはそのことで兄さんを責めた。口ではイザベラが可哀そうだと言ったものの、本音は違う。シャルロットの方が――ぼくの方が優秀だと示すことができなくなるのが嫌だったからだ。
 しかし、兄さんは聞く耳を持たず、イザベラを遠ざけた。残念だったがこれでもいい。兄さんがぼくに負けを認めたのだと、そう思うことにした。
 
 ある日、病床に伏せる父から、ぼくたち兄弟は呼び出された。
 以前から病で自分の居室から出ることがほとんどなくなっていた父。そんな状態の父がぼくたち兄弟を呼び寄せた理由には、察しがついていた。
 次期国王をぼくたちのどちらにするか、それを言い渡そうというのだろう。
 待ちに待った瞬間だった。そう、このときのためだけに今まで努力をしてきたと言っても過言ではない。ぼくが待ち望んでいた機会だ。
 兄さんに勝ちたかったぼくは、どうしても“王”の座が欲しかった。ぼくが兄さんより“上”だと、最も解りやすく示すための、国の頂点の座。
 そのためにいろいろと手回しをした。宮中の有力な貴族たちには賄賂を贈った。いざそのときに、ぼくを支持するようにと言い含めた。また、兄さんの支持を下げるために、官僚使用人問わず、あることないこと吹聴するように指示を出したりもした。
 今では誰もが――母さえも兄さんを暗愚と呼び、ぼくを次王に推している。
 もう先の長くない、若かりし頃の壮健さを微塵も感じさせないほど痩せ衰えた父の枕もとに立ち、ぼくは内心笑みをうかべながらそのときを待つ。できるだけ厳格な顔つきで直立するぼくの耳に、ついに父の弱弱しい声が入り込んできた。

『……次王はジョゼフと為す』

 はじめはよく理解できなかった。
 きっと父は病気で惚けてしまったに違いない。すぐに次王はぼくだと言い直すはずだ。そう思って父の次の言葉を待ったが、いつまで経っても訂正はされなかった。
 それでようやく、これが父の選択なのだと理解した。
 もう、ぼくが王になることはないのだ。ぼくのものになるはずだった権力は、この両手からするりと抜け落ちてしまった。ぼくは結局――兄さんに勝つことはできないのだ。
 絶望に身を落とし、ぼくの心は暗闇をさ迷う。
 すると、兄さんがぼくの顔を窺うようにする気配が感じられた。
 何も見たくなかった。何も聞きたくなかった。目と耳を塞ぎ、寝台でシーツに包まり塞ぎ込んでしまいたかった。しかし、兄さんに弱みを見せたくない。だからぼくは、ことさらに満面の笑みを貼り付け、兄さんにこう言ってやったんだ。

『おめでとう』
『兄さんが王になってくれて、ほんとうによかった』
『ぼくは兄さんが大好きだからね』
『ぼくも一生懸命協力する』
『いっしょにこの国を素晴らしい国にしよう』

 ――嘘だ。
 そんなこと、小指の爪ほどにも思っていない。ぼくの胸中に存在するのは、絶望と、嫉妬と、憤怒だった。でも、それを兄さんに悟られたくないから、こんな出まかせを口にしたんだ。
 そのときの兄さんの表情。呆気にとられたような、何か大きな間違いを犯したことを自覚したような、ぽかんとした顔。
 それが少し愉快だった――。

 退室するように促す父の指示に頷き、ぼくたちは部屋を後にした。ぼくはその足で、父の執務室へとむかった。
 胸の内に渦巻く激情。それは執務室に足を踏み入れたとたん、まるで火竜山脈の火山の噴火のごとく、僕の内からあふれ出てきた。
 カーテンを引きちぎり、床敷きを踏み荒らし、机の引き出しの中身をぶちまける。
 父の宝石や勲章、書類などが床に撒き散らされた。ぼくはその上に突っ伏し、泣き叫んだ。王家の秘宝である“土のルビー”を血がにじむほど握りしめ、床を力の限り叩いた。
 どうして父はぼくを王に選んでくれなかったんだろうか。兄さんの何倍も魔法ができるのに。今まで血のにじむような努力だってしてきたのに。全ては今日この日、兄さんに勝つために――ぼくの方が優秀だと証明するためだったのに!
 ぼくの両目からは、止めどなく涙があふれていた。

 それから数日が経ったある日、犬猟頭から鹿を放ったという知らせを受け、ぼくたちはピエルフォンの森へ狩りに出かけた。
 本当は兄さんの顔なんて見たくもなかったけど、そういうわけにもいかない。森にたどり着いたぼくは、愛馬を駆って鹿を追いかけまわした。そうでもしないと、暴れだしてしまいそうだったからだ。
 まだ、父は兄さんを次王に選んだことを公表していない。それならばもしかすると、今からでもぼくが王になる道もあるかもしれない。
 そんなことを考えながら、今にも悔しさに歪んでしまいそうな顔を押さえつけ、できるだけ平常に見えるように笑顔を貼り付け、馬に鞭を入れる。
 従者に鹿を追い込むように指示を出し、広げさせた――その瞬間だった。

 ――背中に軽い衝撃を感じた。

 予想外のことに、ぼくは思わず馬を止める。小鳥か何かがぶつかったのだろうかと辺りを見回すが、そんな姿はどこにもなかった。
 じわり、と背中が熱を持つ。
 おそるおそる手を回すと、細長いナニカがぼくの背に突き刺さっているのが解った。ぼくはソレを掴み、力をこめて背から引き抜く。
 ぼくの手に納まっているのは、熱を持たない凶器――矢だった。
 呆然とその矢を見つめる。よく見てみると、矢じりに何か塗られているのがわかった。そこでぼくは、ようやく命が狙われたのだと理解した。
 誰が? 何のために? 急速に力が抜けていくのを感じながら、朦朧とする頭でそんなことを考える。
 ふと、視線を感じて振り向く。

 ――ああ、兄さん。

 振り向いた先にいた、よく見知った顔と視線が交差する。

 ――何故、そんな表情をしているんだい?

 ゆっくりと体が傾くのが解った。

 ――兄さんはいつだって僕を。

 視線の先にいる親しい人物は――。

 ――愛してくれていたじゃないか。





形容のしようもないほどの笑顔を張り付け、ぼくを見下ろしていた。






   ◇






 最愛の弟を手にかけた兄の心は虚無に支配され、後悔に身をよじった。兄の心は壊れてしまったのだ。些細なすれ違い。兄弟のどちらかが相手の気持ちを慮ることができていたのなら、この後の悲劇は起こり得なかっただろう。
 兄は弟が愛した妻の心を悪魔(エルフ)の毒薬をもって破壊し、娘を痛めつけ苦しめた。かつて弟についた貴族を、一族郎党粛清した。ガリア史上最大の狂王として、歴史にその名を刻んだ。
 幾百もの戦艦を灰塵に帰し、幾千もの都市や村を焼き払い、幾万もの兄弟(にんげん)を死に追いやった。
 しかし、それでも兄の心は埋まらない。弟をその手にかけた瞬間から、人間らしい感情を一切失った兄は、その隙間を埋めようと、世界を滅ぼすことにした。そうすれば、あのときの後悔の万分の一でも、気持が揺れ動くだろうと。ただそれだけのために、兄は神にすら唾を吐きかけた。

 今、兄の眼下には灼熱の太陽が広がっている。悪魔の手で創り出された死の熱球をもって――兄のその手で創り出した焦熱地獄。
 それでも兄の心は動かない。
 ――戻れるならば、あの頃に戻りたい。弟と一緒に、屈託なく笑いあっていたあの頃に。
 そんな懐古の念が兄の頭を過るが、即座に首を振る。もう戻れない。何をしたとしても、あの頃に戻ることはできないのだと、兄は解っている。
 兄は胸の深奥で涙を流す。もう自分は人ではないと。だがそれでも、人として死にたいのだと。
 眼下に広がる地獄をもってしても、兄は人間には戻れない。ただひたすら、出口のない迷宮でさ迷い歩く。そう――弟を失ったときに比べれば、この世界の終末のような陰惨たる光景でも足りないのだ。
 その地獄を創り出した熱球を、兄は再度握りしめて天に掲げた。皮肉にも弟の死後目覚めた伝説の魔法を、起爆剤とするために唱え始める。

「シャルル、おれはこの手で世界を潰すぞ。なあ、シャルル。そのときおれは涙を流せるだろうか。悲しみに震えることができるだろうか。取り返しのつかない出来事に、後悔することができるだろうか。……ああ、シャルル――シャルル! おれは人だ! 人だから――人として死にたいのだ!」

 詠唱を終え、杖を振り下ろす。
 瞬間――まるで零れ落ちる寸前の涙のように、右手にはめた“土のルビー”が光を反射して輝いた。










『兄さん、ぼくは兄さんのことが大好きだからね』








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