佐々木徹は朝、いつもの通り会社へ向かう途中であった。
この春大学を出て入社したばかりの彼は、社内では新人のため早く会社へ行き、色々と準備をしなければならない。
いつもは十分間に合う時間帯に家を出るが、今日は忘れ物をしてしまったので家を出てから一度戻ったために、いつもより遅くなってしまった。
「やばいなぁ、これじゃ他の人が来る前に着かないかもしんねぇ。くそっ! 『WAWAWA忘れ物〜♪』とか歌って余裕こいてるんじゃなかった!」
腕時計を見ながら走る徹。
これでは会社に着いたときにどんな文句を言われるか分かったものではなかった。
そう思い走る速度を上げる。
息を切らしながら5分ほど走り続けていると、前方に駅が見えた。
そこには既に停車している電車の姿がある。
「やべっ! あれに乗り遅れるときつい!」
そう言い徹はさらに走る速度を上げる。
駅の前にある横断歩道を渡っていたとき、どこから悲鳴のような声が聞こえた。
「危ないっ!!!」
徹がその声に反応し、横を向く。
彼の視線の先には猛スピードでこちらへ向かってくる一台の車。
「え?」
徹はそれをうまく理解できなかった。
車は百キロ以上出ているはずなのに、ひどくスローに感じる。
ゆっくりと自分の体へ衝突する車。
衝撃は感じない。
鈍い音と共に宙へと投げ出される徹の体。
「きゃあああああ!!!」
10mほども飛んだ徹を見て、近くにいた女性が悲鳴を上げる。
それを期に辺りは騒がしくなった。
「事故だ!」
「おい! 救急車と警察!」
「うわ……あれ死んだんじゃねぇか……?」
「俺こんなの初めて見たよ……」
「何? どうしたの?」
「交通事故だって」
朝の駅前は突如起こった事故により騒がしくなる。
徹はそんな周囲の喧噪を、どこか人ごとのように聞いていた。
(何が起こったんだ?)
徹の体はピクリとも動かない。
彼はなんとか目を動かし、自分の周囲を見てみた。
(うわぁ、俺すげぇ血が出てるよ。これ無理なんじゃないか?)
尋常じゃないほど流れ出た血は、現実味を感じさせない。
徹の周りには、彼を助けようとする者や野次馬で人だかりができていた。
数人が徹へ声をかけているのが分かる。
(何言ってるか……分かんねぇ……)
口をただパクパクしているようにしか見えない。
何一つ音が聞こえず、目も霞んできた。
(ああ……やべ……いし…き…が……)
朦朧として何も考えられない。
必死で徹に声をかける若い人の姿を見て、彼は苦笑いするように唇を歪ませた。
(今の…日本……も…捨…てたもん……じゃ…ない…ねぇ……)
大学生くらいの人が、こんなに必死になって怪我人に向かって声をかけているのを見て、こんな時だというのに徹は何故か安心をした。
徹には「俺もそんな変わらないのにな……」という自嘲の思いが浮かぶ。
音は先ほどから全く聞こえず、もう目も見えない。
徹はゆっくりと瞼を閉じ、体の力を抜いた。
―――――暗転。
酷くだるい気分の中、『彼』の意識はゆっくりと覚醒した。
微かにしか見えない視線の先には二人の人間がいる。
すぐ側に立っている、茶色の髪に水色の目をした男性。
ベッドで休んでいる、とても長い黒い髪に鳶色の目をした女性。
男の方が口を開く。
「コレット、よく頑張ったな。元気な男の子だ」
「ありがとう、あなた」
笑いながら言う男にコレットと呼ばれた女は微笑み返す。
どうやら二人は夫婦のようだ。
「伯爵様、おめでとうございます」
「おめでとうございます」
視界の外から数人の声が聞こえた。
伯爵とはこの旦那のことだろう。
周りの祝福の言葉に伯爵は嬉しそうに礼を言う。
「ああ、お前達も良くやってくれた。おかげで元気な子供が産まれた」
「ご過分なお言葉、身に余る光栄であります」
―――たしか朝会社へ行く途中だったはずだ。
―――駅前の横断歩道を渡ろうと……。
ベッドで休んでいるコレットが、脇にいる小さなベッドで寝ころんでいる『彼』を見ながら伯爵へ話しかける。
「あなた、この子の名前はお決めになりましたの?」
「ああ、決めてある」
「何という名前です?」
―――何か喋ってるな。
―――どこの言葉だ?
その問いに勿体ぶった態度で、伯爵は口を開く。
「『アレクサンドル』だ。意味は《民の守護者》という。古き良き貴族の信念を持ち、民を守る者となってほしい」
「まぁ、素晴らしい名前ですわ」
「君は何かつけたい名はあるかね?」
その伯爵の言葉にコレットはしばし悩み、一つの名を口にする。
「ではお祖父様から頂きまして、『クレマンス』というのはどうでしょう? 意味は確か《慈悲深い》だったと」
「うむ、良い名だ」
コレットの言葉に伯爵は満足そうに頷く。
伯爵は小さなベッドに近づき、『彼』を抱き上げる。
―――おいおい、この人随分でかいな。
―――つーかなんだこの状況。
『彼』を頭の上まで持ち上げ、宣誓するように力の入った声で『彼』に話しかける。
「これよりお前の名は『アレクサンドル・クレマンス』! このサン・テグジュペリ伯の息子、『アレクサンドル・クレマンス・ド・サン・テグジュペリ』だ!」
―――いや、何となく嫌な予感はしてたけどね?
―――そう簡単に納得できるわけがない。
「サン・テグジュペリ伯爵家の長男として、トリステイン王国にその名を轟かせるような貴族になるのだ!」
この宣言により、『佐々木徹』の人生は終焉を迎え、『アレクサンドル・クレマンス・ド・サン・テグジュペリ』の人生が始まった。
―――言葉は分からずとも、状況は分かるもんだね。
―――なんかもう色々と無理。
伯爵の手の中には一人の男の赤子がいた。
何か色々と諦めたような顔をして。
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