昼飯後の授業は眠くなる。

 この春の陽気がいけないんだ、と責任転嫁しつつ睡魔と格闘するが、如何せん本能には勝てそうにない。大体窓際の席で暖かな日差しを浴びながらじっとしていて寝るなというのは、拷問と言えないだろうか。さらに加えれば、今日の五時間目は古文だ。こんな日本語とも思えないような意味の分からない言葉を、延々と聞かされ続けるなど、もはや生徒たちに「寝ろ」と言っているようなものだと思う。
 寝てはいけないと思っても、段々と俺の頭は下を向き始め、両手は自然と机の上に枕のように組まれる。そして俺の意識はまるでブラックホールに吸い込まれるように、闇の彼方へと誘われ――。
「立花君」
 冷ややかな声がかけられ、俺の意識は強制的に覚醒させられた。
 聞き覚えがある声に恐る恐る顔を上げると、俺の机の横にはいつの間にか、古文の教師である九條先生が立っていた。いつも通りぴっしりとスーツを着こなした彼女は、細い眼鏡の奥にある怜悧な瞳で冷ややかに俺を見つめると、感情を感じさせない声を出す。
「私の授業はつまらないかしら?」
「い、いえ……そのようなことは……」
「では何故寝ていたの?」
「す、すいません」
「私は理由を聞いているのだけど?」
「……寝不足で、す」
 じっと見つめてくる九條先生の視線に耐えきれず、俺はそろりと顔を背けながら言った。
 彼女はその言葉に目を細めると、ため息をはく。
「来週までに65ページの7行目から次のページの3行目まで、現代語訳してらっしゃい。分かったわね?」
「分かりました……」
「では、以降寝ないように。さあ、再開するわよ」
 彼女はそう言ってくるりと背をむける。俺は安堵の息をはき、指定された箇所を確認する。自分でも自分の顔が引きつったのが分かった。まったく分からない。
 まあいざとなれば聞けばいいかと考え、とりあえず今は授業に集中することにする。
 視線の先、教卓についた九條先生は、まるでさっきのことなどなかったかのように、教科書の内容を読んでいた。


「おう、巧巳。災難だったな」
 授業が終わり先生が出ていった後、教科書をしまっている俺に声がかけられる。
 一旦手を止めそちらをむくと、スポーツ刈りの男がにやにやと笑いながら近づいてきていた。
「何だ、克也か」
「何だはないだろ、何だは」
「それで、災難って何が?」
 文句を言う克也を無視し、教科書を鞄にしまいながら尋ねた。
「薫ちゃんに怒られてたろ?」
「ああ、そのことか……」
「そのことかって……軽いなお前。あ〜あ、薫ちゃんも美人なのにな。もうちょい愛想が良ければ生徒に人気あると思うんだけど」
“薫ちゃん”というのは、古文の九條先生のことだ。
 今年3年目になる彼女は、若いせいか生徒からはそう呼ばれている。しかしそれはあくまで生徒間での呼び名であって、九條先生本人に対してそう呼びかけられることはない。
 年が近ければ高校生などは教師に対しても、まるで友達のように付き合うことはあるが、九條先生は例外だ。良く言えばクールビューティー、悪く言えば無表情で愛想がない。背中の中程まである髪は後ろにゴムでまとめただけで、化粧気もあまりないが、それでも充分美人といえる容姿ではある。しかし、けして生徒と教師という間柄を壊そうとしない彼女は、若く綺麗な女教師であるにも関わらず、生徒からはそれほど人気がなかった。
「まあ生徒になめられないようにしてるんじゃないの?」
 そう言って俺は鞄のチャックを閉める。
「そうかもなあ。若いってのも大変なんだろうし」
「ああ、何かベテランの教師からは嫌味を言われたりしてるらしいから」
「へ〜、そうなんだ。っていうかよく知ってるな、そんなこと」
「あっ……うん、まあそんな噂を聞いたことがあってな……」
「ふ〜ん、俺は初めて聞いたけどな」
 何か探るように俺の顔をのぞき込む克也から視線をそらす。どうも余計なことを言ってしまったらしい。
「なあ、巧巳――」
「おら、座れー。HR始めるぞー」
 克也が何か言おうと口を開きかけると、そこに丁度よく担任が入ってきた。担任の言葉に他の生徒が自分の席に着き始めるのを見て、克也も自分の席に戻っていく。一度ちらりとこちらを見た目は、まだ何か言いたそうではあったが。
 それを横目に安堵の息をつく。別段意地になって隠すことでもないが、言いふらすようなことでもない。とりあえず色眼鏡で見られないために、隠しているといった程度のことだ。
 克也は根ほり葉ほり人のプライベートを探るような人間ではないので、とくに機会がなければ聞かれることはないだろう。
 あまり知られたいことではないので、今後は気をつけなければ。


 バイトから帰ると夕食の準備をする。メニューはカレー。狭いキッチンで一人ニンジンを切っていると、少し寂しくなってくる。
 ルーを入れて煮込んでいると、いい具合にとろみがついてきた。さすがに一日寝かせたわけではないので水っぽさはあるが、まあ上々だろう。
 時計を見ると、すでに八時半をまわっていた。
 そろそろ“あの人”が帰ってくるかな、と思っていると、玄関のドアが開く音がした。ついでバタバタと足音が聞こえてくる。どうやら帰ってきたらしい。
「ご、ごめんね、たっくん! 今夕飯つくるから!」
「急がなくていいよ薫ねえ、もうつくったから。カレーだけどいいよね?」
 慌てた声に、俺はカレーをかき混ぜながらこたえる。
「あう〜、また遅れた〜」
 半泣きになってる声が聞こえる。
 またか、と半ば呆れながら振り向くと、そこには床にしゃがみ込んで目尻を下げた情けない表情をしている“古文教師――九條薫”の姿があった。





従姉弟どち





 両親が死んだのは三年前――俺が中学二年のとき。結婚記念日ということで、二人きりで食事にでかけた帰りのことだった。
 原因は、飲酒運転をしていたトラックとの正面衝突。タクシーで家路についている途中、中央分離帯を越えてふらふらと向かってきたトラックを、タクシードライバーは避けることができず、そのままぶつかったらしい。
 それなりにスピードが出ていたうえ、圧倒的に重量が違う大型トラックとの事故だったため、俺の両親とタクシードライバーは即死だったようだ。トラックの運転手は怪我はしていたらしいが、骨を数本折って頭を少々ぶつけたくらいで、命に関わるほどの重傷ではなかった。
 突然両親を失った俺は、そのことに現実味が持てなかった。
 親戚に慰められても、トラックの運転手に頭を下げられても、生返事するしかできなかった俺を、周りは両親を失った悲しみ故のことと思ったようだ。
 しかしそのときの俺の頭には、両親の結婚記念日と命日が一緒になったんだな、くらいの考えしかなかった。
 葬式の手配やその他諸々の手続きは、父方の伯父夫婦がしてくれた。もちろんまだ未成年である俺は保護者がいなくてはならないので、そのまま伯父夫婦のもとに引き取られることになった。
 初めは養子縁組をしようかという話もあったが、それは断った。何故かは自分でも分からないが、今考えると、多分両親との繋がりをなくしたくなかったのではないかと思う。しかしこれも無理矢理な感じはするので、実際はどうか分からない。
 引き取られてしばらくすると、伯父に海外転勤の話が持ち上がった。左遷というわけではなく栄転のため、伯父夫婦は海外に引っ越すことになった。
 そのとき俺に与えられた選択肢は二つ――伯父夫婦に着いていくか、祖父母のもとに預けられるか。
 ――俺はどちらも拒否した。
 伯父の家は今まで住んでいた場所のすぐ近くだったが、祖父母の家は遠く何県も離れたところ。海外は言わずもがなである。俺は地元を離れる気になれなかった。
 しかし未成年が保護者から離れたところで一人暮らしができるはずがない。困った伯父夫婦は俺を説得しようとしたが、そのときの俺は自分でも何故か分からないくらい頑なだった。
 そこで名乗りを上げたのが、当時大学四年生だった伯父夫婦の一人娘、つまり俺の従姉である――薫ねえだった。

『たっくんの面倒は私が見ます!』

 自宅から離れた大学に通うため、一人暮らしをしていた娘が帰ってきたと思ったら、突然そんなことを宣言したものだから、当然伯父夫婦は混乱した。そして、社会人として独り立ちできているわけでもない娘が、中学生の面倒を見られるはずがない、と反対もした。
 しかし薫ねえは断固として譲らなかった。
 端からよく分からないままそのやり取りを見ていた俺に、薫ねえは不意に「たっくんはどうしたい?」と尋ねてきた。
 伯父夫婦から差し出された手、従姉から差し出された手。俺が選んだのは――後者だった。
 結局薫ねえを説得しきれなかった伯父夫婦は、彼女の卒業と同時に、海外へと引っ越していった。初めは伯母だけでも残ろうと言う話があったようだが、それではむしろ伯父が心配だということで、薫ねえが断ったらしい。
 大学で教師を目指していた薫ねえは、もとから地元で就職活動をするつもりだったらしく、家のすぐ近くにある高校の採用試験を受けて、見事採用された。それから一年後、俺はその高校に入学した。
 書類上の保護者は相変わらず伯父夫婦だが、実質的な保護者は薫ねえ。
 薫ねえの宣言から二年ちょい、俺たちはいつも一緒に夕食をとっている。


「うぅ〜……ごめんね、たっくん。また夕飯つくらせて」
 夕食が終わり食器を洗っていると、テーブルに伏せた薫ねえが情けなさそうに口を開いた。
 俺は水を止めるとタオルで手を拭き、エプロンを外して食後のお茶を入れる。
「いいよ別に、簡単なものなら自分でつくれるから」
 二つ持った片方の茶碗を彼女に前に置きつつそう言う。
「でもね〜……あっ、ありがとう」
 体を起こした薫ねえは、お茶を一啜りすると続ける。
「“たっくんの面倒は私が見ます”なんて言っておいて、つくらせるなんて……ああ、私ったら駄目な姉よね……」
「まあしょうがないんじゃない? 薫ねえだって忙しいしね。今日は職員会議だったんでしょ? 普段は色々お世話になってるしね、自分でできることは自分でやりますよ」
「……なんだか、それも寂しい……」
 そう言って頬を膨らませる様は、とても自分より十も年上の女性には見えなかった。学校で見せる冷然とした態度とはまるで違う。プライベートまであんなピリピリとした雰囲気でいないのは良いことだが、もう少しシャンとできないものかと呆れる。
 そんな薫ねえを横目に、俺は自分のお茶を飲み干すと立ち上がった。
「たっくん、どうしたの?」
 薫ねえが不思議そうに首を傾げながら言う。
「課題をやろうかな、と。何せ薫ねえに罰として結構な量を出されましたから」
「はうっ!?」
 顔をむけずに言うと、薫ねえは胸に手を当ててテーブルに倒れ込んだ。というか「はうっ!?」って……。気が抜けすぎて、幼児退行してる気がする。
「ご、ごめんね? でもでもたっくんだからって寝てるのを見逃すわけにはいかないのよ? 公私は別だからね? 注意だけじゃ示しがつかないし……怒ってる?」
 不安そうに見上げてくる薫ねえにいたずら心がわき上がってきた。
「ああ、もう一生許せそうにないね」
 ことさら無感情にそう言うと、薫ねえは顔を伏せる。さすがに言い過ぎたかと不安になり顔をのぞき込もうとすると、薫ねえは勢いよく顔を上げた。――目が虚ろだった。
「ふ、ふふふ……そうよね、許されないわよね……こんな冷たい姉なんか嫌われて当然よね。ごめんね、身内の恥で。こんなざまでよく教師なんかやってられるわよね。生まれてきてごめんね? もう、あれよね。死んだ方がいいわよね? たっくんだって私の顔なんか見たくないだろうし……ああ、良い考えだわ。うん、すぐ目の前から消えるから安心して。たっくんに嫌われるなら、世界とかもうどうでもいいし。ふふ、ふふふふふふ……」
 怖すぎだった。
「ちょ、ストップ! 薫ねえストップ!!」
「はーなーしーてー! もういいのよ! 私が死ねば全て解決するんだから!」
 慌てて近寄り羽交い締めにすると、薫ねえはだだっ子のようにごねる。
「冗談だって! 嘘です! 気にしてないから!」
 そう言うと薫ねえはピタリと動きを止め、首だけをグリンとこちらにむけた。だから怖いって。
「ホントに?」
「ホントに」
「ホントのホントに?」
「ホントのホントに」
「ホントのホントのホントに?」
「ホントのホントのホントに」
「ホントのホントのホントのホントに?」
「ホントのホントのホントのホントに」
「ホントのホントのホントのホントに「だーッ! 本当だって! 信じてくれよ!」
 永遠にループしそうなので、とりあえず大声を出して強制的に止める。
 薫ねえはしばらく俺の顔をじっと見ていたが、唐突ににへらと表情を崩すと、俺の腕からするりと抜けだす。そして“くふり”と笑うと、何故かお茶のお代わりを煎れだした。
「そうよねー、たっくん良い子だもんねー、あんなことでお姉ちゃん嫌ったりしないよねー」
 周りに音符が見えそうなほど、やけに上機嫌にお茶を入れると、それを俺の前に置く。
「はいプレゼント。お勉強頑張ってねー。お姉ちゃん、シャワー浴びてくるから」
 そう言って、彼女は風呂場にむかった。
「自分の部屋で浴びろよ……」
 いつものことだが、やたらと気分の変化が激しい薫ねえに、一気に疲れが押し寄せてきた。情緒不安定にもほどがある。座り込んでお茶を啜る。やたらうめえ。
 ちなみ、ごく自然に薫ねえがこの部屋で夕食を食べていたが、彼女の家はここではない。
 薫ねえと俺はアパートの隣同士である。ここは俺の部屋、一応一人暮らしなのだ。
 とはいえ彼女は俺の家で朝飯を食い、夕飯も食い、風呂に入り、ときには泊まっていく。部屋には着替えもあれば、日用品もあり、化粧品等も置いてある。いつの間に持ち込んだのか、気づいたら薫ねえ用の箪笥まで装備されているしまつだ。
 ちなみに学校にはさすがに隠せないので、俺たちがいとこ同士だということも含めて伝えてある。初めはさすがに注意を受けるかとも思ったが、学校的には「公私の区別をつけるならオッケー」らしい。意外と大らかな対応に、安心したり心配になったりした。
 ともあれ彼女が出てきたら、またエキセントリックな行動で阻害される可能性があるので、今の内にある程度課題を済ませておこうと、鞄に近寄る。
「たっくーん、シャンプーなーい」
 自分で探せこのヤロウ。
 などと言えるわけもなく、風呂場に足を向ける。基本養われてる身ですから。
「洗面台の上の戸棚にあるだろー」
「とってー」
 横着娘め。
「ここおいとくよ」
 戸棚から取り出したシャンプーを、風呂場のドアの前に置く。すると、
「あ、ありがとー」
「前を隠せえええ!!」
 普通にドアを開けて出てきやがった。
「何よ、昔はよく一緒に入ったじゃない」
「いつの話だよ。はい、シャンプー」
 とりあえずシャンプーを渡し、頭を小突いて風呂場に戻すと、ドアを勢いよく閉めた。
「痛い! たっくん、痛いよ!?」
「知るか」
「うぅ……たっくんが冷たい……ああ、おじさん、おばさん。たっくんが不良になりました……」
 人聞き悪いこと言うな。
 何やらぶつぶつ文句を言い続けている薫ねえを無視し、居間に戻る。鞄から古文の教科書とノートを取り出すと、課題を済ませようと試みた。分からない。そういえば俺古文苦手だったんだ。
 薫ねえが出てきたら教えてもらおう。そう考え教科書を閉じると、お茶を啜る。


 平和な日常。最近になってようやく両親の死について考えるようになった。
 思えば俺は薫ねえに救われていたんだと思う。彼女が傍にいてくれたから、寂しい思いをせずに済んだ。彼女がいつも笑っていてくれたから、俺も笑えた。彼女が破天荒に騒いでいてくれたから、悲しいことを考える暇がなかった。
 いささか気恥ずかしいので、面と向かってお礼は言えないが、私生活面では彼女の負担になりたくはない。だから家事はできるかぎり自分でしてるし、バイトで生活費の一部を稼ごうとしている。
 薫ねえはお見通しかもしれない。彼女はあれで、カンは鋭い方だ。
 でもいつか、彼女にちゃんと“ありがとう”と言いたい――。


 とりあえず天国にいるだろう、父さん、母さん。息子は今日も元気ですよ。















「たっくーん、着替えなーい」
 知るか。







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